まもなく完売=3【総合ランキング1位獲得★】福袋おせち◆高級おせち

『70歳から始まる、異国での挑戦』YouTube用に作ったストーリです

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『70歳から始まる、異国での挑戦』

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第一章 まだ途中

 鍋の中で、湯気が静かに立ちのぼっていた。
 昆布と醤油の匂いが、古いダイニングにやさしく広がる。

 三浦しずえは、箸を持ったまま、ほんの一瞬だけ手を止めた。

 向かいの席には、三人の息子たちが座っている。
 全員がもう大人で、それぞれ別の人生を歩いているが、今夜は久しぶりに全員が揃っていた。

「……本当に行くんだな」

 長男が、茶碗を置きながら言った。
 声は落ち着いていたが、どこか探るような響きがあった。

「向こうは英語だろ? 学校も、若い人ばっかりだろ?」

 次男が、少しぶっきらぼうに続ける。
 三男は黙ったまま、鍋の中の豆腐を見つめていた。

 しずえは、笑った。
 いつもと同じように、なるべく軽く。

「大丈夫よ。死にに行くわけじゃないんだから」

「そういう問題じゃないだろ」

 長男が眉をひそめる。
 その表情に、幼い頃の面影が重なって見えた。

 ――この子も、いつの間にか、こんな顔をする大人になったのね。

「母さん、七十だぞ」

 三男が、ようやく口を開いた。
 声は低く、慎重だった。

「何かあったらどうするんだ」

 しずえは、箸を置いた。
 鍋の湯気越しに、三人の顔を見る。

 心配してくれるのが、ありがたい。
 それは本心だった。

 けれど――
 その心配が、同時に、胸の奥を少しだけ締めつける。

「何かあったら、その時は考えるわ」

「そんな簡単に……」

「簡単じゃないわよ」

 しずえは、ゆっくりと言った。

「簡単じゃないから、行くの」

 息子たちは言葉を失った。
 鍋の中で、具材が静かに揺れている。

 しずえは、その揺れを見つめながら、ふと――
 遠い昔の光景を思い出していた。

 まだ、子どもたちが小さかった頃。

 朝は弁当を作り、
 洗濯物を干し、
 学校から帰ってくる時間を気にしながら働いた。

 夜、全員を寝かしつけてから、
 台所の小さなテーブルに座り、
 ラジオの英会話番組を、音量を絞って聴いていた。

 ノートの端には、
 「someday」
 という単語が、何度も書かれていた。

 いつか。
 いつか、時間ができたら。
 いつか、子どもたちが大きくなったら。

 だが、いつかはなかなか来なかった。

 子どもは成長し、
 家計の心配は尽きず、
 夢は、棚の奥にしまわれていった。

 それでも――
 消えなかった。

 諦めたふりをしても、
 心の奥で、小さく息をしていた。

 私は、いつか、学生になる。

 そんなことを思っていた自分を、
 何度も「馬鹿ね」と笑った。

 けれど、その笑いの奥には、
 いつも少しだけ、悔しさが残っていた。

「……母さん」

 長男の声で、現実に引き戻される。

「本当に、無理はするなよ」

 しずえは、頷いた。

「無理はしない。
 でも、後悔もしない」

 三男が、ふっと息を吐いた。

「昔から、決めたら聞かないよな」

「あなたたちが、一番よく知ってるでしょ」

 少しだけ、笑いがこぼれた。

 食事は、そのあと静かに終わった。
 いつもより、会話は少なかったが、
 それでも、温かい時間だった。

 翌朝。

 成田空港へ向かう車の中で、
 しずえは窓の外を眺めていた。

 流れていく街並み。
 見慣れた景色が、少しずつ遠ざかっていく。

 到着ロビーで、立ち止まる。

「じゃあ……行ってくるわね」

 そう言った声が、少し震えたのを、
 自分でもはっきりと感じた。

 長男が、頭を下げる。

「……気をつけて」

 次男は、照れくさそうに視線を逸らしたまま、
 小さく手を振った。

 三男は、しずえのキャリーケースを軽く叩いた。

「ちゃんと、楽しんでこいよ」

 しずえは、三人を順に見た。

 守ってきたつもりだった。
 育ててきたと思っていた。

 けれど今は――
 送り出されているのは、自分のほうなのだ と、
 不思議な感覚に包まれる。

「ありがとう」

 それだけ言って、
 ゆっくりと背を向けた。

 搭乗口へ向かう途中、
 ふと振り返ると、
 三人はまだ、同じ場所に立っていた。

 しずえは、手を振った。

 心臓が、少しだけ強く鳴る。

 怖くないわけじゃない。
 むしろ、怖い。

 でも――
 それでも、歩いている。

 掲示板に、目的地が表示される。

 San Francisco

 しずえは、胸の奥で小さく呟いた。

「……私は、まだ途中」

 その言葉は、
 自分に向けた、初めての肯定だった。

第二章 知らない国で、私は一人だった

 機内アナウンスが流れ、拍手がまばらに起こった。
 長時間のフライトで重くなった身体を、三浦しずえはゆっくりと起こす。

 窓の外には、見たことのない空の色が広がっていた。
 日本よりも、少しだけ乾いていて、少しだけ遠い青。

 着いてしまった。

 そう思った瞬間、胸の奥に、小さな震えが走った。

 入国審査の列は長く、係員の英語は早い。
 前の人のやりとりを聞いても、半分も理解できない。

 自分の番が近づくにつれ、心臓の音が大きくなる。

「Purpose of visit?」

 一瞬、言葉が出なかった。
 準備していたはずの答えが、喉の奥で絡まる。

「……Study. English.」

 短く、切れ切れに答えると、係員は一瞬だけしずえの年齢を見て、
 ほんのわずかに眉を動かした。

 スタンプが押される音が、やけに大きく聞こえた。

 ――通った。

 それだけで、足の力が抜けそうになる。

 空港の外に出た瞬間、
 空気が変わった。

 風の匂いも、音の質も、すべてが違う。
 タクシー乗り場には、色とりどりの車が並び、
 運転手たちが一斉に声をかけてくる。

「Taxi? Taxi? Where you go?」

 早口の英語。
 距離感の近さに、思わず一歩下がる。

 しずえは、事前にメモしておいた住所を差し出した。

「Here… apartment…」

 男は紙を見ると、にやりと笑った。

「Okay, okay. Good price.」

 “Good price” が、どれほど曖昧な言葉か、
 そのときのしずえは、まだ知らなかった。

 車は、高速道路を抜け、
 見知らぬ街を走り続けた。

 メーターがない。
 不安が、じわじわと広がる。

「How much…?」

 恐る恐る聞くと、
 男は指を三本立てた。

「Three hundred.」

「……ドル?」

 男は、何事もないように頷いた。

 心臓が、一気に冷えた。

 三百ドル。
 日本円に換算するまでもなく、異常だと分かる。

「No, no… too much…」

 必死に首を振るが、
 男は肩をすくめるだけだった。

「Traffic. Long way.」

 それ以上、言葉が続かなかった。
 交渉する英語が、出てこない。

 しずえは、窓の外を見つめた。
 助けを求める相手は、誰もいない。

 私は、ここで一人なんだ。

 その事実が、初めて、はっきりと胸に落ちた。

 アパートに着いたころには、
 空はすっかり夕暮れに染まっていた。

 高い建物の影が長く伸び、
 知らない生活の匂いが漂っている。

 鍵を受け取り、部屋に入る。

「……あ、あれ?」

 ドアを閉めた瞬間、
 水の音が耳に飛び込んできた。

 キッチンの蛇口から、水が止まらず流れている。

 レバーを回しても、止まらない。
 逆に、勢いが増した気さえする。

「……え……?」

 床に水が広がり始め、
 靴下がすぐに濡れた。

 管理会社の連絡先を見る。
 電話番号はあるが、英語だ。

 震える指で、番号を押す。

「Hello?」

 相手の声が早すぎて、何を言っているのか分からない。

「Water… water not stop…」

 必死に伝えるが、
 返ってくる言葉は、さらに早い英語だった。

 電話が切れた。

 しずえは、その場に立ち尽くした。

 床を流れる水の音が、
 やけに大きく、冷たく聞こえる。

 夜。

 ベッドに腰を下ろし、
 濡れた床をタオルで拭いたあと、
 力が抜けて動けなくなった。

 時計を見ると、日本はもう朝だろう。

 息子たちは、仕事に向かっているだろうか。
 朝食を食べているだろうか。

 ――今なら、帰れる。

 そう思った瞬間、
 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

 ここで帰ったら、
 私は、また「いつか」に戻る。

 しずえは、ゆっくりと息を吸った。

「……来ちゃったんだもの」

 声に出すと、少しだけ現実味が増す。

 怖い。
 不安だ。
 情けない。

 それでも――
 今日一日、ちゃんとここにいた。

 ぼったくられて、
 水が止まらなくて、
 泣きそうになって。

 それでも、逃げなかった。

 しずえは、ベッドに横になり、
 天井を見つめた。

 異国の天井は、
 日本のそれより、少しだけ遠く感じた。

「……明日、学校だわ」

 そう思うと、
 心臓が、また少し強く鳴った。

 恐怖と一緒に、
 ほんのわずかな期待が、混じっていた。

 私は、まだ途中。
 だから、続きがある。

 しずえは、そう自分に言い聞かせながら、
 知らない国の夜に、身を委ねた。

第三章 最初の教室

 教室のドアの前で、三浦しずえは一度だけ深呼吸をした。

 白い壁。
 大きなガラス窓。
 廊下の先から、若い学生たちの笑い声が流れてくる。

 スニーカーが床を擦る音。
 軽やかな英語。
 どれもが、自分とは違う世界の音に聞こえた。

 ――大丈夫。
 今日は、ただ座って、聞くだけ。

 そう言い聞かせ、ドアノブに手をかける。

 扉を開けた瞬間、
 空気が変わった。

 ざわり、と。
 目に見えない何かが、教室を一瞬で走った。

 二十人ほどの学生たち。
 ほとんどが二十代前半だろう。
 明るい服、ラフな姿勢、ノートパソコン。

 その中に、しずえは――
 はっきりと浮いていた。

 誰も声を上げない。
 ただ、ちらり、ちらりと視線が向けられる。

 好奇心。
 驚き。
 戸惑い。

 そして、すぐに逸らされる目。

 見ないふり をする視線ほど、
 人を孤独にさせるものはない。

 しずえは、空いている席を探し、
 教室の後ろの端に、そっと腰を下ろした。

 椅子が小さく軋む音が、
 やけに大きく響いた気がした。

 教師が入ってくる。

 穏やかな笑顔の、女性だった。

「Good morning, everyone.」

 教室が一斉に反応する。
 自然な挨拶。
 慣れたリズム。

 しずえは、少し遅れて、小さく口を動かした。

「……Good morning」

 声は、ほとんど出なかった。

 スクリーンが下ろされ、
 スライドに文字が映る。

Listening practice

 その下に、注意書きが続く。

 再生ボタンが押される。

 ――英語が、流れ出した。

 速い。
 思っていたより、ずっと速い。

 単語が、繋がって、溶けて、消えていく。
 一つひとつを拾おうとすると、次が追いつけない。

 ノートを開くが、
 何を書けばいいのか分からない。

 分からない、ということすら、
 どう書けばいいのか分からなかった。

 丸を一つ、書く。
 意味もなく、もう一つ。

 手が、少し震えている。

 後ろの席から、ひそひそ声が聞こえた。

 日本語だった。

「……ねぇ、見た?」

「うん……」

「なんで、おばあちゃん?」

 小さな笑い声。

 しずえの背中が、こわばる。

 分かっている。
 悪意だけじゃない。

 驚きと、戸惑いと、
 ほんの少しの軽さ。

 でも――
 その軽さが、胸に突き刺さる。

「留学って……ありえなくない?」

「テンポ、落ちそう」

 言葉が、刃物みたいに、静かに刺さる。

 しずえは、前を向いたまま、
 何も聞こえないふりをした。

 聞こえないふりは、慣れている。

 子育ての中で、
 何度も身につけた術だった。

 授業が終わると、
 学生たちは一斉に立ち上がり、
 あっという間に教室を出ていく。

 しずえは、最後まで座ったままだった。

 身体が、動かなかった。

 ノートには、
 意味のない丸が、いくつも並んでいる。

 教師が、近づいてきた。

「Are you okay?」

 優しい声だった。

 しずえは、無理に笑った。

「Yes… thank you.」

 それ以上、言葉が出なかった。

 廊下に出ると、
 先ほどの日本語の声の主が、近くにいた。

 若い女性。
 整った顔立ち。
 はっきりした目。

 佐伯ゆみだった。

「ねぇ」

 突然、声をかけられ、
 しずえは驚いて立ち止まる。

「正直に言うけど」

 ゆみは、遠慮のない口調で続けた。

「授業のテンポ、落とさないでくれる?」

 言葉が、すぐに理解できなかった。

「……え……?」

「年齢のことじゃなくてさ。
 ここ、留学だよ?
 みんな真剣なんだから」

 しずえは、何も言えなかった。

 言い返す言葉も、
 説明する言葉も、
 謝る言葉も、
 すべてが絡まって、出てこない。

「……ごめんなさい」

 気がつくと、そう言っていた。

 ゆみは、少しだけ目を伏せ、
 それ以上何も言わずに去っていった。

 廊下に、一人残される。

 胸の奥で、
 何かが、静かに崩れる音がした。

 帰り道。

 街の音が、やけに遠く感じた。

 信号の色。
 車の音。
 人の声。

 すべてが、膜の向こう側にあるようだった。

 アパートの窓に映った自分の姿が、
 少しだけ、小さく見えた。

「……私が、間違ってたのかな」

 声に出すと、
 答えは返ってこない。

 夜。

 寮の小さな机に向かい、
 ノートを開く。

 昼間の丸が、
 涙で滲んだ。

「……ここに、来ちゃダメだったの?」

 誰に向けた言葉なのか、
 自分でも分からない。

 そのとき、
 ノートの端に挟んでいた小さな紙が、
 ふと目に入った。

 孫の、丸い文字。

「できるよ。しずえ!」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 涙が、止まらなくなる。

 でもそれは、
 さっきまでの涙とは、少し違っていた。

 悔しさと、
 情けなさと、
 それでも消えない、何か。

「……今日も」

 しずえは、震える声で呟いた。

「今日も、ちゃんと来れた」

 それだけでいい。
 今は、それだけで。

 しずえは、ノートを閉じ、
 ゆっくりと灯りを消した。

 明日も、行く。

 そう、心の奥で決めながら。

第四章 手を差し伸べる声

 午後のキャンパスは、午前中とは少し違う顔をしていた。

 授業を終えた学生たちが、芝生に座り込み、
 笑いながらスマートフォンを覗いている。
 コーヒーの香りが、風に乗って漂ってきた。

 三浦しずえは、校舎の脇にあるベンチに腰を下ろしていた。

 手には、折りたたんだノート。
 中身は、ほとんど白い。

 単語帳を開いては閉じ、
 開いては、また閉じる。

 頭に入れようとしても、
 午前中の言葉が、胸の奥で引っかかって離れなかった。

 ――テンポ、落とさないでくれる?

 佐伯ゆみの声が、
 何度も、何度も、繰り返される。

 責められた言葉そのものより、
 自分が何も言い返せなかったこと が、
 しずえを一番苦しめていた。

「……私、何しに来たんだろう」

 小さく呟く。

 答えは分かっているはずなのに、
 言葉にすると、急に自信がなくなる。

 ベンチの背もたれに身を預け、
 空を見上げる。

 空は、驚くほど高かった。
 日本で見ていた空より、
 少しだけ、距離があるように感じる。

「……失礼」

 突然、横から声がした。

 驚いて振り向くと、
 見知らぬ男性が立っていた。

 五十代くらいだろうか。
 落ち着いた服装。
 派手さはないが、目元が穏やかだった。

「ここ、座ってもいいかな」

 一瞬、言葉に詰まる。

 英語で返すべきか。
 日本語でいいのか。

 迷った末、
 しずえは小さく頷いた。

「……どうぞ」

 男性は、少し離れた位置に腰を下ろした。
 距離感が、ちょうどいい。

 しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

 無理に話しかけてこない。
 それが、ありがたかった。

「……さっきの授業」

 男性が、静かに口を開いた。

「見てたよ」

 しずえの胸が、きゅっと縮む。

 また、何か言われるのだろうか。
 そう身構えた。

「あなた、すごいね」

 一瞬、意味が分からなかった。

「……え?」

 男性は、しずえの方を見ず、
 前を向いたまま続けた。

「この年齢で、ここに来るって。
 簡単じゃない」

 しずえは、思わず苦笑した。

「すごくなんて……ないです」

「そうかな」

 男性は、ポケットから紙コップを取り出した。

「よかったら」

 差し出されたコーヒーから、
 温かい匂いがした。

 しずえは、少し迷ってから、受け取る。

「……ありがとうございます」

 紙コップの温もりが、
 指先から、ゆっくり伝わってくる。

「勇気ある人だと思うよ」

 その言葉は、
 午前中に刺さった言葉とは、
 まるで逆の質感を持っていた。

 押しつけがましくない。
 評価もしない。

 ただ、事実を置いていくような、
 静かな言い方。

「……勇気なんて」

 しずえは、小さく首を振った。

「ただの無謀です。
 年を考えずに、飛び出してきただけ」

 男性は、ふっと笑った。

「無謀と勇気って、
 紙一重だと思わない?」

 しずえは、答えられなかった。

「僕もね」

 男性は、コーヒーを一口飲んでから言った。

「ここに来るまで、ずっと怖かった」

「……あなたも?」

「うん。
 仕事を辞めて、国を変えて、
 言葉も、立場も、全部一から」

 しずえは、初めて男性の顔を見た。

「高橋です。
 けんじ」

「……三浦です。
 しずえ」

 二人は、軽く会釈を交わした。

「怖いって、悪いことじゃない」

 けんじは、穏やかな声で続けた。

「怖いってことは、
 本気だってことだから」

 その言葉が、
 しずえの胸に、すっと入ってきた。

「……私」

 言いかけて、言葉を探す。

「ここに来てから、
 ずっと、間違ってたんじゃないかって
 思ってて……」

 けんじは、黙って聞いている。

 途中で遮らない。
 評価もしない。

「でも」

 しずえは、コーヒーを握りしめた。

「帰りたいって思うたびに、
 同時に……
 帰りたくないって思うんです」

 自分でも、不思議だった。

 こんな本音を、
 初対面の人に話していることが。

 けんじは、少しだけ頷いた。

「それでいいと思う」

「……え?」

「揺れてるってことは、
 ちゃんと立ってる証拠だから」

 しずえは、その言葉を、
 ゆっくり噛みしめた。

 胸の奥に、
 張りついていた何かが、
 ほんの少しだけ、剥がれる。

 風が吹き、
 木の葉が、さらりと音を立てた。

 キャンパスの喧騒が、
 少しだけ近く感じられる。

「……ありがとうございます」

 しずえは、深く頭を下げた。

 けんじは、慌てて手を振る。

「いや、僕は何もしてない」

 そう言いながらも、
 その表情は、どこか柔らかかった。

「また、ここに座ってたら、
 声かけるかも」

「……はい」

 しずえは、少しだけ笑った。

 ほんの少し。
 でも、確かに。

 けんじが立ち去ったあと、
 しずえは、ノートを開いた。

 白いページに、
 ゆっくりと単語を書く。

 一つ。
 また一つ。

 意味は、まだ曖昧だ。
 発音も、完璧じゃない。

 それでも――
 手は、止まらなかった。

 私は、ここにいていい。

 そう思えたのは、
 ほんの一瞬かもしれない。

 それでも、その一瞬は、
 確かに、しずえを支えていた。

第五章 小さな成功

 午後の光が、通り沿いのカフェの窓に反射していた。

 三浦しずえは、店の前で立ち止まり、
 ガラス越しに中の様子を覗いた。

 木目のカウンター。
 ノートパソコンを開く学生たち。
 カップを片手に、楽しそうに話す声。

 どこにでもある、
 ごく普通のカフェ。

 それなのに、
 扉の向こう側が、
 ひどく遠く感じられた。

 入るだけ。
 今日は、それだけでいい。

 そう自分に言い聞かせ、
 ドアノブを押す。

 鈴の音が鳴った。

 その音だけで、
 心臓が一つ跳ねる。

「Hi, welcome!」

 カウンターの向こうから、
 明るい声が飛んできた。

 若い女性の店員だった。
 笑顔が自然で、
 急かす様子はない。

 列の後ろに並びながら、
 しずえは、頭の中で言葉を繰り返す。

 One coffee, please.
 One coffee, please.

 声に出さず、
 何度も。

 前の客が注文を終え、
 しずえの番が来る。

 カウンターの前に立つと、
 視線が一気に集まったような気がした。

 実際には、誰も気にしていない。
 それでも、身体が強張る。

「Hi, what can I get for you?」

 しずえは、一瞬だけ息を止めた。

 逃げ道は、ない。

「……O— One……」

 声が、震える。

 頭の中が真っ白になる。

 一瞬、
 「やっぱりやめます」と言って
 外に出る自分の姿が浮かんだ。

 でも――
 口は、止まらなかった。

「One coffee, please」

 短く。
 はっきりと。

 一拍の沈黙。

 その一瞬が、
 永遠のように長く感じられた。

 店員が、にこっと笑う。

「Sure! One coffee. Anything else?」

 理解された。

 その事実が、
 胸の奥で、じんわりと広がる。

「……No, thank you」

 自分の声が、
 自分の耳に、少し違って聞こえた。

 店員は、親指を立てる。

「Great job!」

 その言葉に、
 思わず目を瞬かせる。

 褒められた。
 英語で。

 たった一杯のコーヒー。
 たった一言。

 それなのに、
 世界が、少しだけ変わった気がした。

 受け取ったカップは、
 思ったよりも温かかった。

 席に着き、
 両手で包む。

 湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。

 しずえは、カップを見つめながら、
 小さく息を吐いた。

「……できた」

 誰に聞かせるでもなく、
 そう呟く。

 失敗しなかったわけじゃない。
 発音も、きっと完璧じゃない。

 それでも、
 通じた

 それが、すべてだった。

 カフェの中が、
 さっきよりも少しだけ明るく見える。

 人の声が、
 ただの雑音ではなく、
 「言葉」として聞こえてくる。

 しずえは、バッグからノートを取り出した。

 新しいページを開く。

 そこに、ゆっくりと書く。

 coffee

 その下に、日本語で。

 コーヒー

 たったそれだけ。

 でも、今日は、
 丸ではなかった。

 窓の外を歩く人たちを眺めながら、
 しずえは、ふと思う。

 昨日までの自分は、
 ずっと「できない理由」を探していた。

 年齢。
 言葉。
 環境。

 どれも、事実だ。

 でも、
 できない理由があるからといって、
 できないと決まったわけじゃない。

 できたことが、一つある。

 それだけで、
 明日が、少し違って見えた。

 カフェを出ると、
 夕方の風が、頬を撫でた。

 歩幅が、
 ほんの少しだけ大きくなる。

 キャンパスに戻る途中、
 昨日まで気づかなかった花壇に、
 小さな花が咲いているのが目に入った。

 世界は、
 最初から変わっていたのかもしれない。

 変わったのは、
 見る側の自分だった。

 しずえは、胸の奥で、
 静かに思う。

 私は、まだ途中。
 でも、確かに進んでいる。

第六章 境界線を越える

 その日の授業は、いつもより静かに始まった。

 教室の前方に立つ教師が、
 ホワイトボードに大きく文字を書く。

Presentation Day

 その文字を見た瞬間、
 しずえの胸が、ひくりと跳ねた。

 発表。

 英語で。
 人前で。

 心臓の音が、少しずつ大きくなる。

「Today, you will introduce yourself.
Just a short presentation.」

 教師の声は穏やかだったが、
 その内容は、しずえにとって十分すぎるほど重かった。

 学生たちが、順番を確認し始める。
 笑い声。
 軽い冗談。

 その輪の中に、
 しずえはいない。

 名前が、リストの後半にあった。

 時間がある。
 でも、それは猶予じゃない。

 待つ時間は、
 考える時間でもあり、
 怖さが増える時間でもあった。

 前の学生が、次々と発表していく。

「My name is Alex. I’m from Brazil…」

「I love traveling and music…」

 流れるような英語。
 自然な笑顔。

 拍手が起きるたび、
 しずえの指先が冷えていく。

 ――無理だ。
 ――恥をかくだけだ。

 心の中で、
 何度もそう呟く。

 座ったままでいようか。
 体調が悪いふりをして。

 そんな逃げ道が、
 何度も頭をよぎる。

 でも。

 昨日のカフェ。
 「Great job!」という声。
 ノートに書いた「coffee」。

 小さな成功が、
 胸の奥で、かすかに灯る。

 教師が、名前を呼んだ。

「Shizue.」

 音が、止まった気がした。

 立ち上がるまでに、
 ほんの数秒。

 それが、
 人生で一番長い数秒だった。

 膝が、わずかに震える。

 教室の全員が、
 こちらを見る。

 逃げ場は、ない。

 しずえは、
 一歩、前に出た。

 教壇の前に立つと、
 照明が、少し眩しかった。

 喉が、乾く。

 息を吸おうとして、
 うまく吸えない。

 それでも――
 口を開いた。

「My name is… Shizue Miura.」

 一語一語、
 確かめるように。

 教室が、静まり返る。

「I am… seventy years old.」

 一瞬、
 空気が止まった。

 誰かが、息を呑む音。

 しずえは、視線を上げた。

 逃げずに、
 学生たちの顔を見る。

 驚き。
 戸惑い。
 そして――
 興味。

「But…」

 言葉を探す。

 完璧な文法なんて、
 どうでもよかった。

「But I am still learning.」

 声が、少しだけ強くなる。

「I was busy… working, raising my children.
For a long time.」

 英語は、たどたどしい。

 でも、
 止まらなかった。

「This is my dream.
To study. To learn.」

 胸の奥から、
 言葉が溢れてくる。

「I am scared.
But I am here.」

 最後の一文を言い終えたとき、
 教室は、完全に静かだった。

 沈黙。

 その沈黙が、
 しずえを、少しだけ不安にさせる。

 ――やっぱり、だめだった?

 最初に音を立てたのは、
 教師だった。

 ゆっくりと、
 拍手を始める。

 次に、一人。
 また一人。

 やがて、
 教室全体に拍手が広がった。

 大きな拍手ではない。
 でも、確かな拍手。

 しずえの目に、
 熱いものが込み上げる。

 視界の端で、
 佐伯ゆみが、こちらを見ていた。

 目を見開き、
 何かを考え込むような表情。

 その視線を、
 しずえは、静かに受け止めた。

 席に戻ると、
 膝の震えが、ようやく収まった。

 ノートの上に、
 小さな水滴が落ちる。

 涙だと気づくまで、
 少し時間がかかった。

 恥ずかしさは、なかった。

 代わりに、
 胸の奥が、じんわりと温かい。

 言えた。
 逃げなかった。

 それだけで、
 十分だった。

 授業が終わり、
 学生たちが立ち上がる。

 何人かが、
 しずえに微笑みかける。

「That was amazing.」

「Respect.」

 短い言葉。
 でも、確かに届いた。

 しずえは、深く息を吸った。

 世界は、
 相変わらず不安定だ。

 英語は、
 まだ下手だ。

 でも。

 私は、ここに立った。

 その事実が、
 何よりも、しずえを支えていた。

 境界線は、
 消えたわけじゃない。

 でも、
 越えられると知った。

 それだけで、
 世界は、十分に広かった。

第七章 仲間

 昼下がりのキャンパスは、穏やかなざわめきに包まれていた。

 芝生の上では、数人の学生が円になって座り、
 紙コップを片手に話し込んでいる。
 笑い声が、風に乗ってふわりと広がる。

 三浦しずえは、その少し離れた場所を歩いていた。

 以前なら、
 あの輪のそばを通ることすら、
 避けていたかもしれない。

 でも今日は、
 足が止まらなかった。

 理由は、はっきりしない。
 ただ、教室で立ち、
 自分の言葉を話したあとから、
 世界の見え方が、少しだけ変わっていた。

「Hey, Shizue!」

 声をかけられ、
 思わず振り返る。

 昨日まで、
 名前を呼ばれることなど、
 ほとんどなかった。

 声の主は、
 南米から来たという青年だった。
 授業で、隣の席になることが多い。

「We’re going to grab lunch.
Do you want to join us?」

 一瞬、迷いが走る。

 英語で会話。
 集団。
 ついていけるだろうか。

 でも――
 断る理由を探す自分に、
 少し疲れていた。

「……Yes」

 短く、でもはっきり答えた。

 青年は、
 嬉しそうに笑った。

 食堂は、
 世界の縮図みたいだった。

 さまざまな言語が飛び交い、
 肌の色も、年齢も、ばらばら。

 しずえは、トレイを持つ手に、
 少し力を入れた。

 並んでいる料理の名前が、
 よく分からない。

「This one is good.」

 隣にいた女性が、
 指差して教えてくれた。

 ヨーロッパ訛りの英語。

「Thank you」

 それだけ言うと、
 自然に会話が続いた。

 ぎこちない。
 たどたどしい。

 でも、
 誰も急かさない。

 誰も、
 年齢の話をしない。

 テーブルに着くと、
 話題はそれぞれの国の話になった。

「In my country…」

 話を聞くだけで、
 精一杯だった。

 それでも、
 うなずき、
 笑い、
 ときどき短く答える。

 しずえは、
 自分が「そこにいる」ことを、
 初めて実感していた。

 ふと、笑い声が大きくなる。

 誰かの冗談が、
 うまく伝わったらしい。

 意味は、
 全部分からない。

 それでも、
 雰囲気は伝わる。

 その瞬間、
 しずえは気づいた。

 理解することと、
 一緒にいることは、
 必ずしも同じじゃない。

 分からなくても、
 そこにいていい。

 それだけで、
 心が、少し軽くなる。

 食後、
 外のベンチに移動する。

 誰かが写真を撮ろうと言い出し、
 全員で肩を寄せ合った。

「Smile!」

 カメラに向かって、
 自然に笑う自分に、
 しずえは少し驚いた。

 こんな風に笑ったのは、
 いつぶりだろう。

 子育てに追われていた頃。
 仕事に追われていた頃。

 笑ってはいた。
 でも、
 誰かと「並んで」笑うことは、
 いつの間にか減っていた。

 夕方。

 帰り道、
 しずえは一人、歩いていた。

 それでも、
 孤独ではなかった。

 頭の中に、
 いくつもの声が残っている。

 笑い声。
 呼ばれた名前。
 拙い英語。

 どれも、
 温度を持っていた。

「……仲間、か」

 小さく呟く。

 その言葉は、
 少し照れくさかった。

 でも、
 確かに胸に落ちた。

 アパートに戻り、
 窓を開ける。

 遠くで、
 誰かがギターを弾いている音がした。

 しずえは、
 机に向かい、ノートを開く。

 今日、話した単語。
 聞き取れなかった表現。

 一つひとつ、
 書き留める。

 急がない。
 比べない。

 ここには、
 一緒に歩く人がいる。

 それを知っただけで、
 夜は、少し優しくなった。

 しずえは、
 ペンを置き、
 深く息を吸う。

 世界は、
 まだ広い。

 でも、
 もう独りじゃない。

第八章 和解

 夕方のキャンパスは、昼とは違う静けさを帯びていた。

 講義棟の影が長く伸び、
 行き交う学生の数も、少しずつ減っていく。

 三浦しずえは、図書館の前のベンチに座っていた。

 膝の上には、開いたままのノート。
 だが、文字はほとんど増えていない。

 考え事をしているわけでも、
 何かを待っているわけでもなかった。

 ただ、
 今日という一日を、
 静かに身体に馴染ませていた。

「……三浦さん」

 背後から声がした。

 聞き覚えのある、日本語。

 しずえは、ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、
 佐伯ゆみだった。

 少し距離を保ち、
 両手を前で組んでいる。

 以前の、
 どこか尖った雰囲気はなかった。

「……何か?」

 しずえは、穏やかに答えた。

 ゆみは、一瞬だけ視線を落とし、
 それから、意を決したように口を開いた。

「この前は……
 ひどい言い方をして、すみませんでした」

 その言葉は、
 思っていたよりも、
 ずっと静かだった。

 言い訳も、
 弁明もない。

 ただの謝罪。

 しずえは、
 すぐには返事をしなかった。

 胸の奥で、
 過去の感情が、
 ゆっくりと揺れる。

 傷ついたこと。
 言い返せなかった悔しさ。
 夜に流した涙。

 すべてが、
 一気に戻ってくる。

 でも――
 今、目の前に立つゆみの表情は、
 あのときとは違っていた。

「……どうして?」

 しずえは、
 静かに尋ねた。

 ゆみは、
 少し驚いたように目を見開き、
 それから、苦笑した。

「正直に言うと……
 あなたを見て、怖くなったんです」

「怖い……?」

「はい」

 ゆみは、
 ゆっくりと息を吐いた。

「私は、
 ここに来るのに、
 全部捨てたつもりでした」

 家族。
 安定した仕事。
 周囲の期待。

「若い今しかできないって、
 自分に言い聞かせて」

 言葉が、
 少し震える。

「でも……
 あなたを見たら、
 その言い訳が、
 崩れた気がして」

 しずえは、
 黙って聞いていた。

「七十歳でも、
 まだ学ぼうとしてる人がいる。
 まだ、夢を持ってる人がいる」

 ゆみは、
 拳を、ぎゅっと握る。

「それを認めたら……
 私は、
 今まで逃げてた自分を、
 認めなきゃいけなくなる」

 言葉が、
 胸に落ちる。

 しずえは、
 ようやく、ゆみの視線を真正面から受け止めた。

「……怖いのは、
 悪いことじゃないわ」

 しずえは、
 ゆっくりと言った。

「人は、
 怖いものから、
 目を逸らしたくなる」

 ゆみの目に、
 薄く涙が滲む。

「私もね」

 しずえは、
 自分の胸に手を当てた。

「ここに来る前、
 ずっと怖かった」

「……でも」

 ゆみが、
 小さく声を出す。

「あなたは、
 それでも来た」

「ええ」

 しずえは、
 微笑んだ。

「怖かったから」

 その答えは、
 拍子抜けするほど、
 簡単だった。

 ゆみの肩が、
 小さく揺れる。

「……私、
 ずっと、
 間違えない選択ばかり
 探してました」

「間違えない選択なんて、
 どこにもないわ」

 しずえは、
 やさしく言った。

「あるのは、
 選んだあとに、
 どう歩くかだけ」

 しばらく、
 二人の間に、沈黙が流れた。

 でも、それは、
 居心地の悪い沈黙ではなかった。

「……ありがとう、ございます」

 ゆみは、
 小さく頭を下げた。

「……私、
 あなたみたいに、
 なれるか分かりません」

「なる必要はないわ」

 しずえは、
 首を振った。

「あなたは、
 あなたのままでいい」

 その言葉に、
 ゆみの目から、
 一粒、涙が落ちた。

 しずえは、
 何も言わず、
 ただ、隣のベンチを軽く叩いた。

 ゆみは、
 少し迷ってから、
 その隣に腰を下ろした。

 二人は、
 同じ空を見上げる。

 夕焼けが、
 ゆっくりと色を変えていく。

「……私」

 ゆみが、
 ぽつりと呟く。

「もう少し、
 自分に正直になってみます」

 しずえは、
 頷いた。

「それでいい」

 言葉は、
 それ以上、必要なかった。

 年齢も、
 立場も、
 国も違う。

 でも、
 同じ場所で、
 同じ空を見ている。

 それだけで、
 十分だった。

 日が落ちるころ、
 二人はベンチを立った。

「……また、授業で」

 ゆみが言う。

「ええ」

 しずえは、
 微笑んだ。

 背中を向け、
 それぞれの帰り道へ。

 しずえは、
 胸の奥が、
 少し軽くなっているのを感じた。

 和解は、
 勝ち負けじゃない。

 理解は、
 正しさじゃない。

 ただ、
 心が、
 少し近づくこと。

 それだけで、
 人は、
 前に進める。

第九章 卒業式

 体育館の天井は、高かった。

 見上げると、白い梁が幾重にも重なり、
 その隙間から、やわらかな光が落ちてくる。

 三浦しずえは、折りたたまれた椅子に腰を下ろし、
 膝の上で、そっと手を重ねていた。

 周囲には、色とりどりの顔。
 若い学生。
 中年の社会人。
 国も、言葉も、背景も違う人たち。

 その中に、自分がいる。

 それだけで、
 胸の奥が、静かに満たされていく。

 名前が呼ばれるたび、
 誰かが立ち上がり、
 証書を受け取る。

 拍手。
 笑顔。
 写真を撮る音。

 しずえは、
 一人ひとりを見送りながら、
 ここまでの時間を思い返していた。

 成田空港の朝。
 息子たちの背中。
 英語が通じなかった夜。
 水が止まらなかった部屋。
 丸だらけのノート。

 そして、
 教室で立った、あの日。

 どれもが、
 遠いようで、
 まだ身体の中に残っている。

「Shizue Miura.」

 名前が呼ばれた。

 一瞬、
 呼吸が止まる。

 でも、
 立ち上がる足は、
 震えていなかった。

 一歩。
 また一歩。

 壇上へ向かう道は、
 不思議なほど、静かだった。

 証書を受け取る。

 紙の感触。
 重さ。

 それは、
 結果の重さではなく、
 時間の重さだった。

 深く一礼する。

 拍手が、
 体育館いっぱいに広がる。

 その音を、
 しずえは、
 全身で受け止めた。

 席に戻る途中、
 視線を感じた。

 高橋けんじだった。

 彼は、
 小さく頷き、
 口の形だけで言った。

「おめでとう」

 しずえは、
 何も言わず、
 静かに笑った。

 その笑顔は、
 誰に見せるためでもなかった。

 式が終わり、
 外に出ると、
 空は澄み切っていた。

 卒業生たちが、
 思い思いに集まり、
 写真を撮っている。

 佐伯ゆみが、
 こちらに気づき、
 駆け寄ってきた。

「三浦さん」

 少し照れたように、
 でも、はっきりとした声。

「……本当に、
 おめでとうございます」

「ありがとう」

 しずえは、
 ゆっくりと答えた。

「あなたも」

 ゆみは、
 一瞬驚いたあと、
 照れくさそうに笑った。

「……はい」

 二人の間に、
 もう、
 あのときの棘はなかった。

 写真を撮り終え、
 人の輪が、少しずつ解けていく。

 しずえは、
 一人でベンチに腰を下ろした。

 証書を、
 もう一度開く。

 名前。
 日付。
 学校名。

 どれも、
 特別な言葉ではない。

 でも、
 胸の奥で、
 確かな実感が生まれていた。

 私は、やりきった。

 完璧ではない。
 誰よりも優秀でもない。

 それでも、
 逃げなかった。
 立ち続けた。

 それで、十分だった。

 スマートフォンが、
 小さく震えた。

 画面を見ると、
 息子たちからのメッセージが並んでいる。

「おめでとう」

「母さん、すごいな」

「誇らしいよ」

 しずえは、
 ゆっくりと文字を打つ。

「ありがとう。
 ここに来た自分を、
 やっと誇れます」

 送信すると、
 胸の奥が、
 静かに温かくなった。

 空を見上げる。

 雲が、
 ゆっくりと流れていく。

 終わった、
 という感覚はなかった。

 代わりに、
 区切りがついた という感覚。

 学びは、
 終わらない。

 でも、
 一つの旅は、
 確かに終わった。

 しずえは、
 ベンチから立ち上がる。

 歩き出す足取りは、
 ゆっくりだ。

 それでも、
 迷いはなかった。

第十章 新しい挑戦

 キャンパスのベンチに、夕方の光が静かに落ちていた。

 式典の喧騒が去り、
 人の姿もまばらになった頃、
 三浦しずえは一人、そこに座っていた。

 膝の上には、
 薄い紙袋と、
 中にしまったままの修了証。

 もう、何度も開いた。
 確認する必要は、ない。

 それでも、
 手放す気にはなれなかった。

 風が吹き、
 木々の葉が、かすかに音を立てる。

 この場所に初めて来た日のことを、
 しずえは思い出していた。

 知らない空気。
 知らない言葉。
 誰にも見られていないような孤独。

 それでも、
 毎日ここに来た。

 分からなくても、
 座り続けた。

 逃げなかった。

 その積み重ねが、
 今、この静けさに繋がっている。

 スマートフォンが、
 小さく震えた。

 画面に表示された名前を見て、
 しずえは、自然と口元を緩めた。

 孫からのメッセージ

「卒業おめでとう!」
「ばあば、すごいね」
「ねえ、次は何するの?」

 短い文。
 でも、その最後の一行が、
 胸の奥に、静かに残った。

 次は、何するの?

 問いかけのようで、
 期待のようで、
 信頼のようでもある言葉。

 しずえは、
 すぐには返事を打たなかった。

 七十年、生きてきた。

 その多くの時間を、
 誰かのために使ってきた。

 母として。
 働く人として。
 支える側として。

 それは、誇りだ。

 でも、
 ここに来て、
 初めて知った。

 自分のために選ぶ時間 の感触を。

 空を見上げる。

 雲が、
 ゆっくりと形を変えながら、
 遠くへ流れていく。

 しずえは、
 深く息を吸った。

 挑戦は、
 大きな声で宣言するものじゃない。

 誰かに見せるためのものでもない。

 ただ、
 自分の中で、
 そっと始まるもの。

 そのことを、
 ここで学んだ。

 スマートフォンを持ち、
 ゆっくりと文字を打つ。

「ありがとう」
「まだ、決めてないよ」
「でもね」
「ばあばは、もう一度、挑戦してみようと思う」

 送信ボタンを押すと、
 胸の奥が、
 少しだけ高鳴った。

 不安が、ないわけじゃない。

 でも、
 それはもう、
 立ち止まる理由にはならなかった。

 しずえは立ち上がり、
 ベンチを離れる。

 歩き出す足取りは、
 ゆっくりだ。

 若い頃のような速さはない。

 それでも、
 確かだった。

 私は、もう一度、始められる。

 何をするのかは、
 まだ分からない。

 どこへ向かうのかも、
 決まっていない。

 でも、
 それでいい。

 人生は、
 完成させるものじゃない。

 挑戦し続けるものだと、
 今は、そう思える。

 キャンパスの出口で、
 しずえは一度だけ、振り返った。

 学んだ場所。
 迷った場所。
 立ち上がった場所。

 すべてに、
 静かに頭を下げる。

「ありがとう」

 その言葉は、
 過去に向けたものでもあり、
 未来に向けたものでもあった。

 しずえは、
 前を向く。

 空は、
 まだ広い。

 人生は、
 やっぱり、途中だ。

 そして、
 その途中には、
 まだ、
 挑戦が待っている。

〈完〉

あとがき

この物語を、ここまで読んでくださってありがとうございます。

『70歳から始まる、異国での挑戦』は、
特別な才能を持つ人の話ではありません。
大きな成功を収めた英雄の物語でもありません。

ただ、
「いつかやりたかったこと」を、
「もう遅いかもしれない」と思いながらも、
それでも心の奥に残し続けた一人の人生の物語です。

子育てや仕事、家族のために使ってきた長い年月。
自分の夢は、後回しにするのが当たり前だった。
そんな日々の中で、
「本当にこのままでいいのだろうか」と
ふと立ち止まる瞬間は、誰にでもあると思います。

年齢を重ねるほど、
挑戦する理由より、
挑戦しない理由のほうが増えていきます。

体力。お金。言葉。周囲の視線。
そして、何よりも
「今さら」という自分自身の声。

それでも――
もし心のどこかに、
小さくても消えない願いがあるなら。

その願いは、
まだあなたを待っているのかもしれません。

この物語の主人公が選んだのは、
成功ではなく、
「挑戦してみる」という一歩でした。

完璧でなくてもいい。
怖くてもいい。
誰かに笑われてもいい。

それでも、自分の人生を、
もう一度自分の足で歩いてみる。

その姿が、
この物語を通して、
誰かの心にそっと寄り添えたなら、
これ以上の喜びはありません。

人生は、
いつでも途中です。

そして、
夢に「遅すぎる」という期限は、
本当は存在しないのだと、
この物語が教えてくれた気がします。

最後まで、ありがとうございました。

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