まもなく完売=3【総合ランキング1位獲得★】福袋おせち◆高級おせち

『記憶の端で、俺は何度も死ぬ』

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第1章 逃走 ― Rain Simulation

 雨の夜だった。
 高速道路のアスファルトを叩く雨粒が、フロントガラスを無数の線に変えていく。ワイパーは懸命に雨を払いのけるが、視界は濁ったまま曇り続け、世界全体がぼんやりと滲んで歪んで見えた。

 ハンドルを握る東海林レンの手は汗で湿り、指先は震えていた。
 呼吸が浅くなるたびに、肺の奥がひりつく。後部座席には黒いバックパック。つい一時間前までは、ただの運び屋の仕事のつもりだった。簡単な“荷物移動”のバイトだと聞かされていた。だが――。

 バックミラーに赤と青の光が滲んだ。
 パトカーのサイレンが闇を裂き、レンの鼓動を狂わせる。
 そのさらに後方には、窓を黒く塗りつぶしたSUVが一台。パトカーとは明らかに違う。追っている者の目的も、権限も、敵意の質も――まるで別物だ。

「……なんでだよ……なんで、俺なんだよ……」

 唇が震え、喉は乾き、声は掠れてほとんど出ない。
 雨粒がガラスを滑り落ちる軌跡が、妙にスローに感じられる。
 頭の奥がじんじんと脈打ち、嫌な予感だけが膨らんでいく。

 アクセルを深く踏み込むと、車体は濡れた路面を滑るように加速した。
 ハンドルを握る手に力が入りすぎ、関節が白くなる。

 さっきまで――本当にさっきまで、レンはただの生活費稼ぎのために出かけただけだった。
 友人のカイが「簡単な仕事だよ」と言って笑っていた。

『ただのバッグ運びだよ、レン。何も見ない、何も聞かない。ただ渡すだけ。報酬は五十万。俺たちにはちょっとしたボーナスだ。』

 カイの声は、雨音の中でも鮮明に響いてくる。
 あいつの表情を思い出すと、胸の奥に鈍い痛みが走った。
 幼い頃から一緒に育った、唯一心を許せる親友――そのはずだった。

 だが、今はその言葉すら疑わしい。

「嘘つき……!」

 自分でも驚くほど強い声が口から漏れた。
 雨の夜に溶け、誰にも届かない叫びとなる。

 高速道路は緩やかに左にカーブしている。
 追跡車のヘッドライトがこちらを照らし、影が歪んで伸びる。
 逃げ道は限られている。曲がるか、突っ切るか。
 ミスをすれば、滑って横転する。

 レンは前方の脇道を一瞬だけ視界に捕らえた。
 判断の余地はなかった。

「――行くしかねぇ!」

 ハンドルを一気に切り、車体は激しく横に振られる。
 タイヤが悲鳴を上げ、シートベルトが胸に食い込んだ。
 パトカーが急ブレーキを鳴らしながら続いてくる。SUVもだ。
 雨の匂い、エンジンの唸り、金属の震え――すべてが鼓膜を乱暴に叩く。

 レンの頭には、ただ一つの疑問がこびりついて離れなかった。

――バッグの中には、何が入っている?

 脇道を抜け、暗い市街地へ滑り込むと、追跡の気配はやや遠のいた。
 雨はさらに強くなり、街灯の光を銀色に散らしていた。

 レンは息を整えようとしながら、目的を定めず走り続けた。
 やがて巨大な立体駐車場が視界に入り、そのまま入口へ飛び込む。
 屋根の下に入ると雨音が弱まり、代わりに心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。

 車をコンクリートの柱の陰に停め、ライトを消す。
 エンジンを切ると世界が急に静かになった。

 息が震え、喉が乾く。
 ハンドルの上に額を押し付けたまま、深呼吸を試みる。
 体温が急激に下がり、指先が冷えていくのを感じる。

 あのパトカーだけでなく、黒いSUV……。
 警察とヤクザ。両方が同じ獲物を追うなど普通ではない。

「……カイ。お前、何を……巻き込んだ……」

 呟きは雨音より弱かった。

 そのときだった。
 視界の端で、赤い光が小さく点滅した。

 レンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 助手席に置いた黒いバックパックから、弱々しい赤色の点滅が漏れている。

「……やべぇだろ、これ……」

 恐怖と好奇心が同時に腹の底で蠢いた。
 レンは震える指でファスナーを開き、中を覗き込んだ。

 そこにあったのは、金属製の奇妙な装置。
 手のひらより少し大きいサイズで、曲線と直線が入り混じった複雑な構造をしている。
 表面には細かな回路のようなものが浮かび、中心部で赤い光が脈打っている。

 電子音にも似た微細なノイズが、耳の奥をくすぐった。

「……爆弾か?……いや、違う……」

 直感が叫んでいた。
 これは“日常に存在しないもの”だ。

 レンはバッグを乱暴に閉じ、深く息を吸った。
 雨の外から、エンジン音が響いてきた。
 駐車場へ誰かが入ってくる。追手かもしれない。

「クソッ……!」

 レンはバッグを掴み、車のドアを開けて外へ飛び出した。

 外に出た瞬間、冷たい雨が全身を叩きつけた。
 夜の街は濡れたネオンに照らされ、色彩が滲み、現実と幻の境界が曖昧になる。

 バッグを胸に抱えながら、レンは細い路地へと駆け込んだ。
 アスファルトが滑り、危うく転びそうになる。

 背後で怒号が響く。

「いたぞ! 奥へ逃げた!」

 声は複数。
 警察とは思えない荒々しさ。
 しかしヤクザにしては妙に統率が取れている。

 走るたびに肺が焼けるように痛む。
 雨が目に入り、視界が揺らぐ。

「……くそっ……!」

 路地の先に、古びた倉庫の影が見えた。
 レンは迷わずそこへと駆け込む。
 錆びた扉は少し抵抗を見せたが、肩で押し込むとふっと開いた。

 湿った埃の匂い。
 薄暗い空間。
 無造作に積まれた木箱や錆びついたパレット。

 レンは箱の隙間に身を滑り込ませ、呼吸を整える。

 雨音が遠ざかり、代わりに自分の心臓の音が大きく響く。
 喉が震え、汗と雨で服が冷たい。

 そこで、レンはバッグから装置を取り出した。

 赤い光。
 脈打つ点滅。
 触れた瞬間、金属の表面が温かく感じた。

 そして――。

 装置が「カチッ」と鳴り、空間が揺らいだ。

 目の前の空気が薄い膜を張ったように歪み、光が走る。
 その光は音もなく形を取り、空中にホログラムのような映像を映し出した。

 数字、地図、設計図。
 解析不能な情報が渦を巻く中、
 ひとつの表記が浮かび上がる。

 「Simulation #9820」

「シミュレーション……?」

 その瞬間、頭の奥で何かが弾け、激しい痛みが走った。
 視界が白く染まり、別の光景が流れ込む。

――ネオンの光に包まれたゲームセンター。
――笑いながら格闘ゲームを遊ぶ少年レンとカイ。
――明るい未来が信じられた時間。

『レン。いつかさ、全部投げ出してさ、遠くに逃げようぜ。俺とお前ならどこまでだって行けるよ。』

 あの日のカイの笑顔。
 今思えば、それがどれほど特別な光だったか。
 しかし同時に――どれほど重い闇の入口だったか。

「カイ……お前は……」

 呟きかけたところで、倉庫の外から怒号が響いた。

「ここだ! 中にいるぞ!」

 ドアが激しく揺れ、何者かがこじ開けようとしている。

 レンは慌ててホログラムを消し、装置をバッグに押し込んだ。

 終わった――そう思った。

――その瞬間。

「レン」

 背後から声がした。

 振り返ると、そこにカイがいた。

 黒いロングコート。
 雨に濡れた髪が額に張り付き、暗い倉庫の光に濡れた瞳が浮かぶ。
 あの優しい目。あの柔らかな笑み。

 だが、何かが違っていた。
 表情は変わらないのに、瞳の奥に“冷静すぎる静けさ”があった。

「カイ……!」

 レンは思わず声をあげた。
 安堵、怒り、疑問、裏切られた予感――すべてが喉に絡まって出ない。

 カイは手を差し伸べた。

「来い。出口がある。」

 その声音は落ち着きすぎていた。
 まるで、最初からすべてを計算していたように。

 レンは迷いながらも、その手に引かれ倉庫の奥へ走り出した。
 背後で扉が破られ、複数の足音が倉庫内へなだれ込む。

 二人は薄暗い裏通路を抜け、小さな非常口の前までたどり着いた。
 カイが言う。

「レン。バッグ……俺が持つよ。走りづらいだろ?」

 雨の匂い。
 カイの微笑。
 胸の奥に嫌なざわめきが走る。

 しかし――レンは親友を信じた。

「……頼む」

 バッグを手渡した瞬間、カイの笑みが消えた。

 その後の出来事は、一瞬だった。

 カイの手がレンの腹部に沈む。
 冷たい刃が皮膚を破り、肉を裂き、熱いものが流れ出る。

 視界が崩れ、膝が床に落ちた。

 カイが静かに言った。

「信じる方が悪い。」

 雨の夜の逃走劇は、そこで途切れた。

――そして、レンの“次のシミュレーション”が始まることを、彼はまだ知らない。

第2章 赤い光 ― The Trigger

 立体駐車場の冷たい空気が、レンの肺にひゅうと入り込み、背筋を震わせた。
 外の雨が遠くなった代わりに、世界は不気味なほど静かだった。その静寂がかえって追われる恐怖を際立たせる。

 車のエンジンを切ったあと、レンはしばらく動けなかった。
 手が震え、膝はわずかに痙攣している。
 流れた汗が首筋を伝うたび、彼は自分がまだ生きていることを確認するように呼吸を繰り返した。

 高架特有のざらついた風が吹き抜け、雨の匂いが混じる。
 鉄骨のきしむ音が、不定期に天井の上から響いてくる。

――追ってきていない、のか?

 希望とも不安ともつかない感情が胸の奥で揺れた。
 だが、その希望は脆く、頼りない。
 本能はまったく別のことを告げている。

 “ここもすぐに見つかる”

 それでも動けなかったのは、恐怖と疲労で身体が縛られていたからだけではない。
 助手席に置いた黒いバックパック――その中の赤い光が、どうしても気になってしまうからだ。

「……あれ、なんだよ……」

 小さく呟くと、声が駐車場のコンクリート壁に反響して、自分が思っていたよりも大きく響いた。

 レンは助手席に手を伸ばし、バッグを胸の前に引き寄せた。
 生地の内側から、一定のリズムで弱い赤い光が漏れている。
 ゆっくり、脈を打つように。

 ファスナーを開き、内部を覗く。

 金属の装置がそこにあった。雨に濡れていないのに、かすかに光沢を放っている。
 表面の曲線と線条構造は、既存の機械のどれとも一致しない。

 手のひらに乗せると、冷たさと温かさが同時に伝わってくるような矛盾した感触があった。
 不気味だが、どこか惹かれる。

 赤い光は、装置中央部の小さなレンズ状の部品から発されている。

「……発信機か?GPS……いや……違う。」

 レン自身、犯罪に手を染めた過去はない。
 しかし、生活に困窮したときに“怪しいバイト”の話が舞い込めば、少し調べる程度の知識はつく。
 そんな経験からも、これはただの追跡装置ではないとすぐに分かった。

 こんな光り方はしない。
 こんな形状の発信機も見たことがない。

 もっと――根本的に違う種類のもの。

 レンは装置を凝視したまま、ふと幼い頃の記憶を思い出した。

 小学生のころ、レンとカイはいつも一緒だった。
 同じ団地の同じ棟に住み、同じ階段を駆け上がり、同じ公園で遊び、同じゲームセンターで遊んだ。

 カイは優しく、気が弱いが頭の回転が早く、機械の仕組みに詳しかった。
 レンは活発で喧嘩っ早く、よくカイを守った。

 誰かがカイに意地悪をすれば、レンが前に出て言い返し、相手を怯ませた。
 カイのほうはそのあと決まってこう呟いた。

『……ありがとう、レン』

 本当に弱々しく、申し訳なさそうに言う。
 その声が、レンは昔から嫌いではなかった。

 だが――。

 中学のある時期から、カイは変わり始めた。
 弱さの裏側に、奇妙な冷静さを持つようになった。
 優しい笑顔の奥に、計算が宿り始めた。

『レンはさ……必要なんだよ。俺には、お前みたいなやつが』

 その言葉の意味を、レンはずっと考えなかった。
 考えれば壊れてしまう気がしたから。

 ――いま、この赤い装置を見つめていると、それらがすべて繋がるような気がしてくる。

 駐車場の入り口でエンジン音が響いた。

 レンはビクッと肩を震わせた。
 音はゆっくりと近づき、停車する。

 誰かが降りる足音――複数。
 そのリズムが、妙に整っていた。

「……くそっ」

 レンは装置をバッグに押し込むと、車の外へ飛び出した。
 まだ追ってきている。あの光を追跡の目印にしているのかもしれない。

 全身にアドレナリンが駆け巡る。
 膝は震えるが、それでも走らなくてはならない。

 外へ出ると、雨はさらに激しく降りつけていた。
 街灯とネオンの光が雨粒に反射し、世界が揺らいで見える。

 レンは駐車場を抜け、細い路地を選んで走り続けた。

 雨で靴がずぶ濡れになり、アスファルトの水たまりが跳ねて服を汚す。
 だが、そんなことを気にしていられない。

 背後から怒声。

「見たぞ! あっちだ!」

「あの荷物、絶対に逃がすな!」

 レンは息を飲んだ。
 “荷物”と言った。
 レン本人よりも、バッグの中身が重要――そんなニュアンス。

 これは単なる犯罪ではない。
 国家レベルか、民間の巨大組織か、それとも――。

 バッグが揺れるたびに、内部の装置が低い電子音を漏らす。
 脈を打つ赤い光が布越しに漏れ、夜の闇に浮かび上がる。

 レンは背負うバッグを抱え込み、体を屈めて雑居ビルの陰に隠れた。

 そのとき、装置の中から声のような微細な“囁き”が聞こえた気がした。

――……#98……接続……
――……反応……
――あなたは……

「ッ……なんだよ……!」

 幻聴か?
 雨音と足音と心臓の音が混じり、何が現実か分からなくなる。

 それでも、声は確かにレンの意識の奥に刺さった。

 路地を抜け、市街地の灯りが消えると、突然、工場地帯の冷たい空気が広がった。
 無人の倉庫が立ち並び、街の雑音が遠のいていく。

 レンは荒い呼吸を繰り返しながら、近くの大型倉庫へ駆け込んだ。
 中は暗く、静かで、外の喧騒とは別世界のようだった。

 階段裏に身を隠しながら、レンはバッグを胸に抱えたまま膝を抱え込む。

 雨で濡れた髪が額に貼りつき、指先は冷えて痺れている。
 疲労と恐怖で胃が捩れ、喉が震える。

 だが、装置だけは脈動を止めない。

 赤い点滅は、今までよりゆっくりと、しかし確実にレンの意識に何かを刻み込むようだった。

 そして――。

「……っ!」

 レンの頭の奥で、突然強い光が弾けた。

 ホログラムの映像が、雨に濡れた倉庫の影を照らした。

 数列。設計図。地図。
 それらが重なり合い、やがてひとつの単語を浮かび上げた。

「Simulation #9820」

 まただ。
 脳が揺れ、視界が歪み、何かが勝手に再生される。

――カイとゲームセンターで笑いあう少年時代
――二人で無駄に遠くまで歩いた放課後
――別れ道で、カイがいつも振り返って言った言葉

『……レン。俺、お前のこと……必要なんだよ』

 その“必要”の意味が、いまは全く違う重さで胸に沈む。

「カイ……俺を……利用したのか……?」

 呟いた瞬間、倉庫の外で怒声が響いた。

「ここだ! 中にいるぞ!」

 レンは飛び上がりそうになった。

 装置をバッグに突っ込み、暗闇の中を走る。

 しかし――ここで逃げ切れるとは思えなかった。

 終わった――そう感じた、その瞬間。

「レン」

 背後から、あまりにも聞き慣れた声がした。

 振り返ると、暗闇の奥からカイが現れた。

 雨で濡れた黒い髪。
 冷静すぎる瞳。
 子供の頃と変わらない優しい笑顔――
 なのに、その裏に隠れた“何か”が、レンの全身を強張らせた。

 カイは手を差し出し、言った。

「来い。出口を知ってる。」

 その声音は、幼少期から変わらない優しさを持ちながら――
 どこか、異質だった。

 レンは息を呑みながら、その手を取った。

 これは始まりだ。
 逃走ではない。
 運命の回路へと繋がる、最初のトリガー。

第三章 雨の路地 ― The Pursuit of Shadows

 倉庫から飛び出した瞬間、雨がレンの顔に叩きつけられた。
 息を吸い込むと、冷たさが喉を刺し、肺まで切り裂くような感覚が走る。
 それが、いまの状況に妙にフィットしていた。

 胸の奥が痛む。
 いや、痛むというより、沈み込むように硬直している。

 バッグの中の装置が、まだかすかな赤い光を放ち、
 布越しにレンの体温と混ざり合って鼓動を主張している。

 まるで、
 “逃げる方向を知っているのはお前ではない”
 と囁いているようだった。

 路地は狭く湿っており、雨水が薄い川のように流れている。
 靴底が滑るたびに身体がバランスを崩しそうになるが、
 レンは止まれない。
 止まったら終わる。

 ただ、全身で理解していた。

 恐怖ではない。
 もっと深いところ――“条件反射”が身体を動かしている。

 雨粒が街灯に照らされて銀色に輝き、
 路地の壁に反射して無数の光の筋を作る。
 その中を、レンは駆け抜けた。

 背後から複数の足音。
 警察の靴音とは違う。
 もっと重く、早く、躊躇いがない。

「いたぞ! 走ってる!」

「赤外線反応あった!やっぱりこっちだ!」

 レンは歯を食いしばった。

 “赤外線反応”――そう言った。

 つまり装置は何かを発している。
 おそらく追跡されているのは自分ではなく――バッグの中身。

 雨音が全てを飲み込みながらも、後方の声は鮮明に届く。

「逃がすな! 対象は危険だ!」

対象。
人ではなく“物”として扱う言葉。
しかし、ぞっとするのはその次だった。

「……対象と運搬者、両方確保しろ」

運搬者――
つまりレンだ。

 胃がねじれる。
 逃げなければ。
 本能ではない。
 長年積み重ねた“危険を嗅ぎ分ける感覚”が、レンに強烈な指示を出す。

――ここにいたら、消される。

 それは、幼少期に植えつけられた恐怖と深くつながっていた。

 雨の中を走りながら、ふと視界が白くフラッシュした。
 頭の奥で、誰かの叫び声のような音がする。

 そして――記憶が乱暴に割り込んできた。

◆回想

「レン、隠れろッ!」

 父親の怒号。
 ガラスの割れる音。
 母の悲鳴。
 廊下に散らばる酒瓶の破片。

 幼いレンの目の前で、カイが肩を掴んで引き寄せた。

「こっち来い! 絶対に見るな!」

 カイの腕は震えていた。
 だが、レンを抱える手だけは強かった。

 そのときレンの脳裏に焼きついた感覚――
 “逃げるしかない”という、ただそれだけの単純な命令。

「……ッ!」

 レンの足が一瞬止まりそうになったが、すぐに走り出す。

 雨の匂いとアスファルトの泥臭さが
 過去の記憶を押し流していくようだった。

 だが、胸の中の痛みは残ったまま。

 ただの追跡劇ではない。
 これは――自分の過去そのものを追われているような感覚だ。

 路地を抜けると、小さな広場に出た。
 古い街灯がひとつ、オレンジ色の光を落としている。
 その光の下に、傘もささず佇む男がいた。

 黒いロングコート。
 濡れた髪。
 視線は伏せられ、表情は読めない。

 カイ。

 だがレンが呼びかけようとした瞬間、
 その姿は雨のカーテンに紛れて消えた。

「……いまの……」

 幻覚か現実か分からない。
 装置の刺激で脳が混乱しているのかもしれない。

 だが、胸の痛みはそれを否定する。

 “カイは近くにいる”

 そんな確信だけが残った。

 追手の足音が近づき、レンは再び走り出す。

 右に折れ、左に曲がり、再び細い路地へ。
 息が荒れ、視界が揺れる。

 そのとき、バッグの中の装置が突然“カチッ”と音を立てた。

――……接続……成功……
――対象記憶層……開放……
――No.9820開始……

「やめろ……勝手に……!」

 レンはバッグを揺らすが、赤い光はさらに強くなり、
 まるで心臓と同じリズムで点滅を始めた。

 頭が割れそうだった。

 視界の中で、過去と現在が混ざり始める。

 雨の路地が、いつのまにか少年時代の路地に変わる。
 父親の怒号が、後方の追手の怒声に重なる。

 子どもの頃のレンと、現在のレンが並走しているかのように
 記憶が流れ込み、めちゃくちゃに混ざっていく。

『レン!逃げろ!』

 幼いカイの声。
 雨の中、必死に叫ぶ。

『お前がいないと……俺……!』

 その言葉は、現在のカイの声へと変わる。

『レン。来い。出口を知ってる』

 優しさとも狂気ともつかない声。

――俺は、ずっと逃げ続けていたのか……?

 そんな疑問が胸に湧く。

 逃げなくてはならない理由。
 追われる記憶。
 そして、追跡者の正体。

 全部が、一つの線で繋がろうとしていた。

 雨が強くなる。
 道は工場街へと変わり、街灯がまばらになった。

 倉庫の影が巨大な壁のように立ち並んでいる。

 レンはそのうちのひとつ――扉の壊れかけた倉庫へ逃げ込んだ。

 重い扉が雨音に紛れて閉まり、
 外の世界が一瞬だけ静寂に包まれる。

 その瞬間――

 赤い光がレンの顔を照らした。

 装置は、まるで“待っていた”かのように、
 いよいよ本格的に動き始めた。

第四章 倉庫の光 ― The Hologram Awakening

 倉庫の扉が雨音を遮断すると、世界が突然、無音の箱に閉じ込められたように静かになった。

 湿った床、錆びた鉄の匂い、長年動かされていない木箱の影。
 外の喧騒が嘘のように消え、空気が濁ったまま沈殿している。

 レンは呼吸を整えようとしたが、胸の奥で暴れる心臓がそれを許さなかった。

「……落ち着け……」

 自分に言い聞かせたが、声は震えていた。
 背中に汗がつたう。
 天井の隙間から雨漏りがポタリ、ポタリと落ちてくる。

 外の追手がどこまで迫っているのか。
 それを確認する余裕もない。

 ただひとつ、はっきりしているのは――
 この倉庫に長居はできないということだ。

 レンは暗闇に目を慣らしながら、倉庫内の奥へ進んだ。
 雑多に積み上げられた木箱とパレットの狭間。
 そこなら外から姿は見えない。

 バッグを抱え込み、しゃがみ込む。
 呼吸が冷えて白く霞む。

 すると、バッグの中でまた“カチッ”と音がした。

 レンは反射的にファスナーを開ける。

 装置が赤く脈動している。
 先ほどまでの弱い明滅ではなく、
 あきらかに“意図を持った”点滅だった。

「……何なんだよ、お前……」

 指先で触れた瞬間、装置がビリッと震え、
 レンの視界が一瞬白く染まった。

 倉庫の暗闇の中に、光が立ち上がる。

 薄い膜のような揺らめきが空間に漂い、それは一瞬で形を変えた。
 数列、地図の断片、設計図――情報の断片が、
 まるで目の前の空中に貼り付けられたスクリーンのように展開される。

 ホログラム。

 音もなく、しかし確固たる存在感でそこに浮かんでいた。

「……ふざけんな……なんだよこれ……!」

 レンは後ずさったが、光は追いかけるように視界へ流れ込んでくる。

――Simulation #9820
――Memory Layer: Locked
――Error: Fragmented sequence detected

「やめろ……意味わかんねぇ……!」

 だが、装置はレンの意識を覗きこむように、
 強制的に次の映像を投影した。

◆ホログラム記憶 ― 断片①

 暗いリビング。
 皿が割れる音。
 男の怒号。

 幼いレンが椅子の下に隠れている。
 震える腕を誰かが掴む。

「レン、来るな! 見るな!」

 カイだ。
 涙をこらえながらレンを引き寄せている。

 その奥――
 白い光が強くなり、記憶が破裂するように途切れた。

◆ホログラム記憶 ― 断片②

 手術台の上の自分。
 無機質な照明。
 顔の見えない医師たち。

――心拍数安定
――機械層接続開始

 意味が分からない。
 だが、恐怖だけが鮮明だ。

◆ホログラム記憶 ― 断片③

『レン、お前は……特別だよ』

 優しい声。
 泣きそうな声。

 少年時代のカイの声。
 しかし温度が違う。

 暗い影を落としている。
 悲しさと憧れと――奇妙な所有欲が混じり合った声。

『俺は、レンのためなら……なんだってできる』

「違う……こんなの、記憶じゃねえ……!」

 レンは頭を抱え込んだ。

 現実感が崩れていく。
 自分の中に“知らない自分”がいるような気がして、
 脳が不気味に軋んだ。

――Memory layer: Unlocked
――Accessing emotional core
――Warning: Subject instability

「やめろ……っ!」

 叫んだ瞬間、ホログラムが揺れた。

 その光が、レンの胸元に反射し、赤い光と混ざり合った。

 一瞬だけ、倉庫の空間が“別の場所”と重なる。

 手術台。
 青白いライト。
 機械の音。
 誰かが自分の胸を切開している。

 視界の端に、白衣の影が立っている。

「……誰だ……」

 声にならない声で呟くと、その影がゆっくり振り向いた。

 優しい、穏やかな、いつも通りの――

 カイ。

 笑っていた。

 昔と変わらない、安心させるような微笑。
 だが目だけは冷たく、感情が削ぎ落とされている。

『レン。大丈夫。すぐ終わるから』

 それは、友人に向ける優しさではなかった。
 術者が“素材”に向ける声だった。

「……違う……これは……何なんだよ……!」

 レンは叫んだ。

 ホログラムが揺れ、映像が歪む。
 その瞬間、倉庫の扉が激しく叩かれた。

「開けろ! そこにいるのは分かってる!」

 追手が来た。

 レンはバッグを掴み、木箱の影に身を滑り込ませた。

 ホログラムはまだ消えない。
 光が周囲を照らし、不必要な存在感を放つ。

 このままではすぐに見つかる。

「……頼む……消えろ……!」

 装置を必死に握りしめると、一瞬だけ赤い光が瞬滅し――
 ホログラムが吸い込まれるように消えた。

 倉庫に闇が戻る。

 外の声が近づく。

「ここを破れ! 慎重に行け、対象が中にいる!」

 緊張で喉が乾く。
 心臓の鼓動が耳の奥で荒々しく響く。

 その時だった。

 倉庫の奥、暗闇の中で、何かが微かに動いた。

 足音は極端に軽く、静かで、雨音に溶け込むようだった。
 レンは息を呑む。

 影が揺れ、ゆっくりと近づいてくる。

 そして、薄闇から輪郭が現れた。

 黒いコート。
 雨に濡れた髪。
 整った輪郭。
 優しげな目。

 カイが立っていた。

 どこから入ったのか分からない。
 扉は外から破られようとしているのに、
 カイは気配もなく倉庫の奥から現れた。

 レンの胸が締めつけられる。

 あのホログラムの記憶と、目の前のカイが重なる。
 優しさと冷たさが同時に迫ってくる。

「カイ……お前……」

 声が震えた。

 カイは柔らかく微笑んだ。
 まるで昔、公園で遊んだあとに「また明日」と笑っていた少年時代のカイ、そのままの顔で。

 だが、目の奥には影があった。

「レン。来い。出口を知ってる。」

 低く、落ち着いた声だった。
 緊迫した状況にも関わらず、声音には焦りが一切ない。

 レンは迷った。

 激しく叩かれる倉庫の扉。
 警告の叫び声。
 赤い装置。
 カイの微笑。

 全部がぐるぐると渦巻き、判断を曇らせる。

 しかし――カイの手だけは、迷いなく差し伸べられていた。

 その手は、少年時代と同じ。
 いじめられたカイを庇ったとき、
 カイが恐怖に震える手でレンの腕を掴んだときの温もりと似ていた。

 頼れる。
 信じられる。
 そう思わせる手。

 だが、どこかで警鐘が鳴っていた。

――この手を握ってはいけない。

 頭の奥で、誰かが囁くような感覚。

 それでも。

 外の扉が破られる音がしたとき、レンは反射的にその手を掴んでいた。

 カイの掌は驚くほど冷たかった。

「行くぞ、レン」

 穏やかな笑顔のまま、カイはレンを引いた。

 光の消えた倉庫の奥へ。
 逃走か、罠か分からない闇の中へ。

 レンの運命は、この瞬間、大きくねじ曲がり始めた。

第五章 包囲 ― The Encirclement

 カイに腕を掴まれ、薄暗い倉庫の奥へと引きずられるように進む。
 木箱の影がすれ違うたび、レンは無意識に身を縮めた。
 外で叩かれる扉の音は、心臓の鼓動と同じ速さで響いている。

「こっちだ、レン」

 カイは穏やかな声で囁く。
 その声だけ切り取れば、いつものカイだ。
 雨の日に傘を忘れて迎えに来てくれた時と同じ優しい響き。

 だが、いまのカイの瞳は違っていた。
 何かを計算するような、冷たい光。

 レンはその違和感を振り払うように、後ろを振り返った。

 追手が倉庫の扉を破壊しようとしている。
 金属が擦れ、軋み、悲鳴のような音をあげる。

「早く……早く行かないと……!」

 息が荒い。
 疲労と混乱で足がもつれそうになる。

「大丈夫。俺がついてる」

 カイはそう言って、まるで子どもを導くようにレンの手を強く引いた。

 昔と同じだ。
 だが、昔とは違う。
 胸の奥の鈍い痛みが、確かにそれを告げている。

 倉庫の奥、壁の裏に隠れた通路があった。
 カイが木箱を押すと、それは軽やかな音を立ててずれ、
 鉄の扉が現れた。

「これ……いつから……?」

「元々ここは輸入倉庫で、裏ルートがある。知ってるやつは少ない」

 即答したカイの声は淡々としていた。

 カイは裏社会のことなど無縁だったはずだ。
 それなのに、こうした場所の構造を熟知しているのはどう考えても不自然だ。

「カイ……お前、何者なんだよ……」

 思わず問いかけると、カイは振り返り、いつもより柔らかな笑みを浮かべた。

「レンを助けられる者だよ」

 その言葉に、背筋がぞくりと冷えた。
 嬉しさでも安堵でもない。
 もっと大きな何か――
 理解できないものに触れたような、そういう寒気だった。

 通路は狭く、薄暗く、地下に向かって傾斜していた。
 天井から水が滴り、足元の鉄板が湿気で滑りやすくなっている。

 カイが先を歩く。
 レンはその背中を見つめながら、
 いつかの記憶がふと蘇るのを感じた。

◆回想

 小学校の帰り道。
 雨の日だった。

 レンは家に帰りたくなかった。
 父親の怒号と投げられる酒瓶の音が、頭にこびりついていた。

『レン、帰りたくない理由……教えてよ』

 カイは傘もささず、濡れた髪のままレンの隣に立っていた。

『言わなくてもいい。でも、俺は聞くよ。ずっと』

 その時の優しさが、レンは嬉しくてたまらなかった。
 “カイだけは裏切らない”
 そう思っていた。

 しかしその記憶が、まるで裂けるように崩れる。

 断片的な映像が脳内に割り込んだ。

◆ホログラム記憶

――白い部屋
――手術台
――自分の胸に触れるカイ
――優しい声
『大丈夫だよ、レン。すぐ終わるから』

「ッ……!」

 レンは頭を押さえて立ち止まった。

 カイが振り向く。

「レン?」

「いや……なんでも……」

 そう答えたが、胸はざわざわと落ち着かず、
 装置の赤い光が鼓動に合わせて強く光り始めた。

――Memory activation
――Subject instability rate: 42%

 聞き慣れない電子音声が脳に直接響く。

「やめろ……やめろ……」

 己の声が震える。
 カイの前では見せたくなかった弱さが、勝手に露呈する。

 通路の奥で、遠くから爆発音のような音が響いた。
 追手だ。
 倉庫ごと破壊して突入したのだろう。

「急ぐぞ」

 カイはレンの手を取り、再び歩き出す。

 だが、歩く足音が不自然に軽い。
 湿った鉄板の上を歩く音ではない。
 カイだけ“重さがない”ように見える。

 本当に人間なのか?
 そんな疑問が喉元まで上がった。

 通路の終点に、古い鉄扉があった。

 カイは鍵のようなものを取り出し、
 複雑な動作で扉の端を操作する。

 金属のロックが外れ、重い扉がゆっくりと開いた。

 外の空気が流れ込み、レンは思わず息を飲んだ。

 そこは、さらに奥へ繋がる地下空洞だった。
 古い排水路か、軍事施設か、あるいは――。

「ここを通るのか……?」

「他に道はない」

 カイは言い切る。

 余裕すら感じる口調。
 まるで、この状況を最初から知っていたかのように。

 レンが一歩踏み出したとき、背後で鉄扉が震えた。

 追手が通路の途中まで迫っている。

「カイ、急げ!」

 レンが叫ぶと、カイは静かに頷き、扉を閉めた。

 その直後――。

 爆発音。
 金属片が飛び散る音。
 追手の怒号。

 閉じられた扉の向こうで、それらが混ざり合い、
 狂気のような轟音を立てていた。

「行くぞ、レン」

 カイは優しく言った。
 だがその声の奥には、隠しきれない何かがあった。
 冷たい決意。
 運命を受け入れた者だけが持つ静かさ。

 レンは、胸の奥に奇妙な不安を感じた。

――この先に進んだら、もう戻れない。

 そんな予感がした。

 だが、カイの手は離れなかった。

 少年時代と同じ、温度のない手。

 レンの心臓は激しく脈打っていたが、
 その脈が自分のものなのか分からなかった。

 バッグの装置も、まるで呼応するように赤く点滅を続けている。

――Connection stable
――Memory alignment: 53%
――Proceed to next layer

 電子音が響く。

 レンは、瞳を少し見開いた。

「……俺……どうなってるんだ……?」

 その問いに、カイは振り返り、
 優しい笑みを浮かべて言った。

「大丈夫だよ、レン。俺が全部わかってるから」

 それは慰めではなく、
 “支配”の響きを含んだ言葉だった。

 気づいたときには、
 二人は深い地下の闇へと吸い込まれていった。

 その闇が、
 この先訪れる裏切りの真相を静かに飲み込んでいることを
 レンはまだ知らない。

第六章 救いの影 ― The Shadow That Rescues

 地下通路は、まるで別世界だった。
 上の世界で降り続いていた雨音はここまで届かず、
 かわりに水滴が鉄管を伝う乾いた音だけが響いている。

 薄暗く、息を吸うと湿気に混じった鉄の匂いが肺に広がった。
 レンはカイに手を引かれたまま歩いていたが、
 胸の奥に広がり続ける重苦しさがどうしても抜けなかった。

「……カイ、どこまで続くんだ、この道……?」

「心配するな。もう少しだ」

 カイは振り返らず、落ち着いた声だけ返した。
 その声の静けさが、逆に不安を煽った。

 追手から逃げている最中の人間の声ではない。
 まるで――この状況を最初から知っていたかのような、そんな声。

 通路はときおり枝分かれしている。
 右は行き止まり。
 左は排気口に続く細道。
 その奥には古い換気扇が止まったままぶら下がっている。

 カイは迷いなくルートを選ぶ。

 その姿が、レンには奇妙に映った。

「……なんでそんなにわかるんだよ。この道――詳しすぎる」

 問いかけると、カイはようやく足を止めて振り向いた。
 薄暗い光の中でも、彼の瞳は静かに輝いていた。

「偶然じゃないよ。準備してきたんだ」

「準備……?」

「レンを守るために」

 その言葉の温度が、どこかおかしい。
 優しいのに冷たい。
 安心させるのに、胸が締めつけられる。

 レンは無意識に一歩後ずさった。
 カイが手を伸ばし、レンの腕を取る。

「怖がるな。大丈夫だよ。俺がついてる」

 その仕草は子どもの頃と同じだった。
 雨に濡れながら、レンの愚痴を黙って聞いてくれた少年の頃と。

 しかし、手の冷たさが違った。

 体温がない。
 まるで氷に触れたような感覚。

「カイ……お前、本当に大丈夫なんだよな?」

「もちろんだよ。俺はレンの味方だ」

 微笑む顔は美しく整っている。
 だが、その整いすぎた表情に人間的な“揺らぎ”が一切なかった。

 そのとき、通路の奥から金属を引きずる音が聞こえた。

 追手が下層まで降りてきた。

「止まれ! そこにいるのは分かっている!」

 声は複数。
 規律正しく、訓練された声帯。
 警察ではない。
 もっと軍事的な何か――専門の部隊。

「急ぐぞ、レン」

 カイはレンを肩で押し、暗い階段を下り始めた。

 その動きは人間離れしていた。
 足音がほとんどしない。
 姿勢がブレない。
 影が揺れない。

 レンは息を切らしながら後を追うが、
 途中で膝がガクッと折れた。

「っ……!」

 胸が痛い。
 心臓が暴れるように脈打つ。

 それに呼応して、バッグの装置も強く光り始めた。

――Memory layer: 68%
――Cognitive sync: unstable

 電子音が鼓膜ではなく脳に直接響く。

「カイ……俺……なんか、おかしい……!」

 呻くように言うと、カイがレンの肩を支えた。
 その力は驚くほど強く、優しさと力ずくが同時に存在するような感触だった。

「大丈夫。すぐ落ち着くよ。君なら耐えられる」

「なんでそんなこと……言い切れるんだよ……!」

 声が震え、涙がにじむ。
 カイはレンの頬をそっと撫でた。

 まるで恋人のような、過保護な触れ方。

「俺は……レンのことなら、全部知ってるから」

「……全部?」

「そう。全部だよ」

 通路の奥で、追手が階段を降り始める音が響いた。
 遠くで金属靴が水溜りを踏み、反響が空洞を震わせる。

 カイはレンの手を握りしめた。

「行くよ」

 今度は抗う暇もなく、レンは引っ張られて走り出した。

 階段の下は、広い地下空間だった。
 古い貯蔵庫を思わせる広さで、柱が林立し、奥は暗闇に沈んでいる。

 カイはその中央を迷わず進む。

「カイ、本当に……出口なんてあるのか……?」

「あるよ。ずっと前から知っていた」

 その言葉の意味が、レンには理解できなかった。

「知っていた……? 今日の逃走をか?」

「うん。こうなるって、分かっていたよ」

 返答はあまりに自然で、狂気じみていた。

 レンが立ち止まると、カイも足を止める。

「カイ……何から俺を助けようとしてるんだ……」

「全部からだよ」

「全部……?」

「レンが苦しむもの、傷つけるもの、壊すもの。
 全部、俺が排除する」

 柔らかく微笑みながら、恐ろしいことを言う。

「君の人生には――“余計なもの”が多すぎる」

「余計なもの……?」

「レンを苦しめる記憶も、人も、過去も」

 カイの声が低くなる。

「本当は……全部、俺が整理してあげたい」

 “整理”という言葉が、骨の髄まで冷たく響いた。

 追手の声が再び迫る。

「配置完了! 対象を包囲する!」

 その瞬間、カイの表情が変わった。

 優しさを剥ぎ取られ、内側の鋭さが露わになる。
 静かで、無機質で、怒りも恐怖もない目。

 それは――
 人間ではない目だった。

「……レン。ここに隠れて」

 カイは崩れた棚の裏を指した。

「お前は?」

「心配するな。すぐ戻るよ」

「やめろ! お前一人でどうにかなる相手じゃ――」

 言い終わる前に、カイはレンの頬に手を添えた。

「レンを守れるのは俺だけなんだよ」

 その言葉は甘く、
 けれど同時に“支配の宣言”のようにも聞こえた。

 次の瞬間――
 カイの身体は静かに闇へ溶け込むように消えた。

 影の中に吸い込まれ、姿が見えなくなる。

「カイ!? おい!」

 呼びかけても返事はない。

 地下空間に、金属靴の音が響き渡る。

「いたぞ! 区画Cに反応!」

「包囲を維持しろ! 対象は危険だ!」

 照明が点灯し、白い光が空間を切り裂く。

 追手が一斉に現れ、銃を構えながら慎重に進んでくる。

「……終わった……」

 レンは震えながらバッグを抱きしめた。

 装置の光が激しく点滅する。

――Memory layer: 82%
――Synchronization imminent

「やめろ……来るな……頼む……」

 レンの喉が震え、声が途切れた。

 追手がレンの隠れている棚に近づく。

「発見――」

 その瞬間。

 闇の奥から何かが飛び出した。

 影だった。
 黒く細い線のように見えるほど速く、
 それが複数の追手を一瞬で薙ぎ払った。

「なッ――!」

 銃声より早く、悲鳴より早く。
 影は人の形に変わり、柱の前に静かに立った。

 カイだった。

 息一つ乱れていない。
 衣服に乱れもない。
 ただ無表情。

「対象確保を優先――ッぎゃああっ!」

 次々と倒れる追手たち。

 カイの動きは、
 美しく、正確で、感情がなく、
 そして――人間ではなかった。

 レンは声を失った。

「……カイ……?」

 カイは静かにレンに向き直った。

 微笑む。

 さっきまで見せていた優しい笑顔――
 そのままの形で。

「言っただろ、レン。
 君を守れるのは俺だけなんだよ」

 その笑顔に不気味なほどの静寂が潜んでいた。

 レンの背筋に寒気が走る。

 だが同時に――
 どこかで安心している自分もいた。

「さあ……行こう。出口はもうすぐだ」

 手を差し出すカイ。

 レンは震える手で、その手を――取ってしまった。

 その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。

 カイの笑顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ気がした。

 それは優しさではなく――
 捕食者の影に似ていた。

第七章 裏切り ― The Fall Into the Knife

 

 地下倉庫を抜けると、そこはさらに下層へ続く斜面状の通路だった。
 コンクリートがむき出しの壁には古い配管がむき出しで走り、
 空気は冷たく湿っている。

 遠く、上の階で響いていた追手の怒声は薄れていき、
 足音も次第に遠のいた。

「……カイ、本当にもう……追ってこないのか?」

「大丈夫。ここまで来れば奴らは追えない。
 この下は、正式な設計図に載っていない」

「載ってない……?」

「秘密の通路。昔からあるんだ。
 誰かがこの街を造るとき、勝手に増築した“余白”みたいなところだよ」

 カイは軽く笑った。
 整った横顔に影が差し、笑みの奥の何かが見えなかった。

 レンは息を整えようとしたが、肺が痛み、胸に重みがのしかかった。

 呼吸が浅い。
 心臓が少し遅れて脈動する。

 バッグの装置が、また低く唸るような電子音を鳴らしていた。

――Memory layer: 89%
――Sync rate: unstable rising

 レンは頭を押さえた。

「……くそ……また、来た……」

「レン、座れ」

 カイがすぐ横に屈み込み、肩を支える。
 体温のない手が、妙に頼もしく、同時に不気味だった。

「無理するな。もう少しで終わる。
 出口はすぐそこだから」

「カイ……お前、何でそんなに落ち着いてるんだよ……」

「落ち着く理由もある。
 レンは、生きるべきなんだ」

 優しい声。
 しかしその眼差しは――どこか、人間味が欠けていた。

 二人は歩き続けた。
 通路は緩やかに上昇し始め、風の流れが変わる。

 どこか、外の匂いが混じっていた。

「もうすぐ出口だよ」

 カイが言った。

 その言葉にレンの胸は少し軽くなり、
 同時にどうしようもない不安も膨れ上がった。

 外に出たらどうなるのか。
 追手に捕まっていない保証はない。
 自分の身体はどうなるのか。
 装置は何なのか。

 そして――カイは、何者なのか。

「なあ、カイ……」

「なんだ?」

「お前……いつからこれを知っていた?
 俺が今日こうなることを」

 カイは歩みを止めずに答えた。

「ずっと前から」

「ずっと……?」

「レンが“こうなる”未来は、だいたい想像できていたんだ。
 運び屋なんて仕事を引き受けたあたりから、もう決まっていた」

「……未来が見えるのかよ」

「違うよ。
 レンが選ぶ道は……全部、自然な流れなんだ」

 その答えは意味がわからなかったが、
 問い返す気力がレンにはなかった。

 通路の先に、弱い光が見え始めていた。

 レンの鼓動が少し早くなる。

 出口は、地下鉄の廃駅跡だった。

 壁は崩れかけ、線路には冷たい風が吹き込んでいる。
 天井の開口部から外が見え、雨の匂いも漂っていた。

「ここから出れば、少なくとも追手は来ない」

 カイは前を向いたまま言った。

「レン。……バッグを貸して」

「え?」

「重いだろ?
 この段差を登るには邪魔になるから」

 カイの声はいつもどおり優しい。
 だが、その優しさの奥に――
 レンは、説明のつかない“揺らぎ”を感じた。

「……なんで、カイがお前……バッグを?」

「持っててあげるだけだよ。
 出口を登れば返す」

 レンはしばらく黙った。

 胸の奥にざらつくような違和感があった。

 けれど――
 身体が限界で、息も苦しくて、判断がつかない。

 レンはバッグの紐を握りしめた。

「……お前、本当に……俺の味方だよな……?」

 カイが振り返り、微笑んだ。

「当たり前だ。
 俺は……レンの一番側にいる」

 その瞬間――
 レンはバッグを預けてしまった。

 カイは受け取ると、ゆっくりと、その重さを確かめるように握り込んだ。

「よし……。じゃあ行こうか」

 そしてカイは一歩、レンに近づいた。

 その一歩が、レンの全身の警鐘を鳴らした。

「カイ……?」

「大丈夫。すぐ終わる」

「すぐ……?」

「レン、お前は――もう、十分頑張ったよ」

 声は優しい。
 優しすぎるほど優しい。

 それは、まるで
 別れを告げる言葉のようだった。

「カ、カイ……?」

 レンの足が後ずさる。

「何でそんな顔をするんだ……?」

「怖がる必要はないよ」

 カイはゆっくりと手を伸ばし、
 レンの肩にふれた。

 慈しむような手つき。

 幼い頃、泣きじゃくるレンの背中を静かにさすってくれたときと同じ仕草。

 そのまま――

 カイのもう片方の手が、レンの腹部に静かに入っていった。

「……………………」

 声にならなかった。

 痛みが遅れてやってくる。
 熱い。
 熱すぎる。

 カイの手には、いつの間にか細身のナイフが握られていた。

 刃は深く、正確に、迷いなく――
 臓器のすき間を通すように刺し込まれている。

「……カ……イ……?」

 喉が震え、声にならない。

 カイは静かにレンの身体を支えながら、
 見下ろした。

 その顔には、哀しみも怒りもなかった。

 ただ、静かだった。

「レン。
 信じるほうが……悪いよ」

 優しい声。
 まるで昔話を語るみたいに穏やかで。

 レンの視界がぐらりと傾き、
 膝が崩れ落ちる。

 血が地面に落ちる音が、妙に大きく聞こえた。

 世界がゆっくりと遠のいてゆく。

「なんで……なんでだよ……カイ……」

 レンの手がカイの肩をつかもうと伸びる。
 しかし指先は震え、空を掴むだけだった。

「どうして……?」

 カイは、レンが触れた空気の揺れを、ただ静かに見つめていた。

「レン。
 君がこのまま進めば――もっと苦しむ」

 淡々と、事実だけを述べるように言う。

「苦しませたくなかった。
 だから……ここで終わらせる」

 優しい終わり。
 そんな言葉が隠されているような声だった。

 レンは地面に倒れ込み、視界がぼやける。

 カイの姿が揺れて、光の中に沈んでいく。

「……お前……俺の……友達だった……よな……?」

「そうだよ。
 ずっと友達だ」

 その言葉に、レンは涙がこぼれた。

 悲しみでも怒りでもない。

 “理解できないまま終わる”ことへの絶望だった。

 意識が落ちる直前、
 カイの声が遠くで聞こえた。

「安心しろレン。
 これで――お前はもう、苦しまなくていい」

 バッグを抱え、静かに背を向ける。

 カイの黒いコートが揺れ、
 その影がレンの視界から消える。

 

 世界は、音も色も失った。

 

 そして。

 

 レンは一度、死んだ。

**📘 第八章 死と目覚め ― The Awakening of the Hollow Self**

 

 ――暗闇があった。

 闇は色も形もなく、温度すらなかった。
 ただ、何かを失ったあとの空洞のように、沈黙だけが満ちていた。

 自分の体がどこにあるのか、まるでわからない。
 腕の重さも、足の存在も、胸の鼓動も、何ひとつ感じられなかった。

 ただ、意識だけが、深い水の底に沈んでいくように漂っていた。

――これは死だ。

 そう思った。

 死とは案外単純で、静かなものなのだと、ぼんやりと納得していた。

 

 しかし、闇は永遠ではなかった。

 微かな光が、遠くのほうで揺れ始めた。

 光はゆっくりと、大きくなり、輪郭を帯びていった。
 次第に世界に“形”が戻り始める。

 白い天井。
 白い壁。
 白い床。

 どれも無機質で、冷たく、病院のようでありながら、病院ではなかった。

 レンは、自分の体を動かそうとした。
 だが――動かない。

 まるで重力が何倍にもなったかのように、身体はベッドに張りついていた。

 それでも、視線だけは動いた。

 見下ろすと、自分の胸部には透明な装置が接続されており、
 内部で微細な光が脈打っていた。
 細いコードが何本も皮膚の下へと潜り込み、
 心臓のあたりで青白い光点が点滅している。

 見慣れた臓器の動きとは違った。
 どこか冷たく、人工的で、正確すぎるリズム。

 

「……ここは……どこだ……?」

 声が出た。

 自分の声なのに、どこか他人のように聞こえた。

 その瞬間、白い空間の中央に、ふっと光が生まれた。

 光はゆっくりと形を取り、人のシルエットへ変わっていく。
 まるで空中に描かれた立体映像。
 女性の姿をしたホログラムだった。

 長い髪。
 整った顔立ち。
 しかし表情がほとんど動かない。

 ただの映像。
 だが――どこか意志を感じさせた。

「Simulation #9821……完了」

 女の声は透き通っており、機械音声とも人間の声ともつかなかった。

「結果――失敗」

「……シミュレーション?」

 レンはかすれた声で聞き返す。
 ホログラムの女は、首をわずかに傾けた。

「あなたは、死にました」

 淡々とした口調だった。

「三十二秒間、心拍・脳波ともにゼロ。
 その後、体内機構の再起動により意識回復が確認されました」

「死んで……生き返った……?
 そんな……ありえないだろ……!」

「ありえます。
 あなたは人間ではありません。
 あなたは、人造人間です」

 室内の空気が止まったように感じた。

「……人造……人間……?」

「正確には、
 “人工神経網搭載型ハイブリッド個体”。
 生体組織の約52%に人工構造が介在し、
 あなたの生命維持は機械的に管理されています」

「そんな…………嘘だ……」

 レンは胸のあたりに目を落とす。
 透明な装置が規則的に光を放ち、
 皮膚の下で走る青いラインが脈動していた。

 人間ではありえない構造。
 だが――痛みはある。
 呼吸もある。
 感情もある。

「じゃあ……じゃあ俺は……なんなんだよ……?」

「あなたは“再構成”されました」

 ホログラムの女は淡々と言う。

「殺害後に回収され、肉体を基盤として新たに組み直された。
 その過程で、脳内の記憶領域に人工層が挿入されました」

「……殺害……」

 その言葉が胸を刺す。

――カイの顔。

 レンは思わず目を閉じた。
 黒いコート。
 優しい声。
 そして、腹に刺さったナイフ。

 痛みが、ふと蘇る。

「……カイ……あいつが……」

「はい。
 あなたを殺した人物は、カイです」

 淡々と言い放たれ、レンの呼吸が乱れた。

「なんで……なんでカイがそんなことを……!」

「あなたが立ち入りすぎたからです。
 “計画”にとって、あなたの存在は危険でした」

「計画……? 何の……!」

 ホログラムの女は静かに顔を向けた。

「これはあなたの記憶です。
 あなた自身が知っている情報です」

「俺が……?」

 理解できなかった。

 ホログラムの女は右手をかざした。
 すると空中に光のパネルが広がり、映像が浮かび上がった。

 手術台。
 銀色の器具。
 照明。
 横たわる自分の体。

 それを見下ろす男――カイ。

 白衣を着て、表情のない顔で作業を進めている。

 カイの手元には、脳と機械を繋ぐ微細なケーブルが走っていた。
 胸部は開かれ、人工心臓のような装置が埋め込まれていた。

「な、なんだよこれ……!
 俺は……俺はこんな……!」

「これはあなたから回収された記憶です。
 あなたは“改造”の過程を、断片的に覚えていました」

 レンは震えながら映像を見つめる。

 映像のカイは言った。

『……レンならうまくいく。
 昔からタフだったからな』

 軽く笑いながら。

 優しい声なのに、その優しさはどこか“空っぽ”だった。

「やめろ……もう見せるな……!」

 レンが叫ぶと、映像はすっと消えた。

「……どうして俺なんだ……
 どうしてカイは……俺を……!」

「あなたが彼にとって“最適な素材”だったからです」

「素材……?」

「あなたは、極めて安定した神経構造を持っていました。
 AIとの融合に向いていたのです」

「そんな……勝手に……!」

「選択権はありませんでした。
 カイにとって、あなたの死は計画の一部でした」

 レンは震え、視界が揺れた。

 信頼していた友人。
 心の支えだった存在。

 その男が、自分を殺し、利用し、再構成した。

 怒りよりも先に来たのは――悲しみだった。

「……俺は……俺は結局……何だったんだ……?」

「あなたは、人間でも機械でもない。
 “境界の存在”です。
 しかし――」

 ホログラムの女はわずかに間を置いた。

「あなたの感情は本物です。
 苦しみも、怒りも、友情も、本物です」

「……そんなはず、ないだろ……
 全部作られたものなんだろ……?」

「いいえ。
 記憶は操作できますが、感情は消せません」

 レンの胸が大きく鼓動した。

 それは機械的なリズムではなく、
 確かに“生きている感覚”を伴った鼓動だった。

「……じゃあ……俺の……カイへの気持ちも……?」

「それも本物です」

 レンは顔を歪めた。

「じゃああいつの優しさも……?
 あいつの笑顔も……全部……?」

「それは、あなたが判断することです」

 やがて、ホログラムは静かに告げた。

「あなたの身体機能は安定しました。
 次の段階へ移行します」

「次の……?」

「あなたはこれから、自分の過去を再生し直します。
 失われた記憶を、ひとつずつ取り戻しながら――
 本来歩むべき道へ進むのです」

「記憶を……取り戻す……?」

「はい。
 あなたが望むなら」

 レンは息を整えた。
 混乱は消えない。
 痛みも、怒りも、悲しみも消えない。

 それでも――

「……俺は……
 知りたい。全部……」

 ホログラムが静かに頷いた。

「では、開始します」

 室内の照明が落ち、暗闇が戻ってくる。
 だが今回は、恐怖ではなかった。

 光がひらき、
 レンの脳内に新たな記憶が流れ込む。

 その最初の映像は――

 笑うカイの顔だった。

『レン、俺たちはどこへでも行けるよ』

 

 記憶が痛む。
 胸が痛む。

 だがレンは、その痛みを受け止めた。

 

 こうして、
 レンの“第二の人生”が始まった。

📘 **第九章 復讐 ― Memory Recoil**

 

 意識が再び深い水の底から浮かび上がったとき、
 レンはどこにいるのか分からなかった。

 白い天井でも、死の闇でもない。
 代わりにそこに広がっていたのは――

 夕暮れの河川敷だった。

 オレンジ色の光がゆっくりと世界を染め、
 遠くを走る電車の音が微かに聞こえる。

 懐かしい風景。
 少年時代の記憶の中で、
 何度も、何度も訪れた場所。

「ここは……俺の記憶……?」

 風が頬を撫でる。
 草の匂いがわずかに漂う。
 どれもあまりに“本物”すぎて、胸が痛んだ。

 レンが立ちすくむと、背後から声がした。

「レン!」

 振り返る。
 走ってくる少年がいた。
 細くて、背が低くて、眉の下にいつも不安の影を落とした――

 幼いカイ。

「待ってよ! 一緒に帰るんでしょ!」

 レンの胸が締めつけられた。

 忘れかけていた昔の記憶。
 二人で走った帰り道。
 他愛のない話。
 くだらない喧嘩。

 あの頃のカイは、人を裏切れるような人間には見えなかった。

 少年のカイが近づき、にこっと笑った。
 その笑顔は、現在のカイの歪んだ笑みによく似ていながら、
 どこまでも純粋だった。

「レン、今日さ、おれ……すごく嬉しかったんだ」

「……何が?」

「守ってくれたこと」

 胸に痛みが走る。

 レンはこの時期、誰よりも弱いカイを守ることが自分の役目だと思っていた。
 親からも見放され、居場所のなかった少年を支えていた。

 だが――
 この“守られた記憶”が、カイの中で後に“歪んだ依存”に変わる。

「レンがいれば、おれ、怖くないんだ」

 そう言って、幼いカイは無邪気に笑った。

 その瞬間、風景がぶれる。

 河川敷が歪み、夕陽が黒く溶け、
 視界が一気に暗転した。

 

 次の瞬間、世界は研究室へ切り替わった。

 銀色の機材。
 冷たい蛍光灯。
 消毒液の匂い。

 そこは、レンが“改造された場所”だった。

 だが――今回の映像には、自分の視点だけでなく、
 過去の自分の身体の感覚まで戻ってきていた。

 胸の奥が痛む。
 骨が軋む。
 手足の感覚が重い。

 レンは手術台に固定されていた。

 頭上のライトの向こうに浮かぶ顔。
 白衣の男。

 カイ。

「……レン。起きてるか?」

 優しい声。
 しかしその優しさは“本物ではなかった”。

 カイは淡々と器具を並べ、ケーブルを調整し、
 その途中で金属の瞳を持つ監視ドローンへ指示を出した。

「予定通り、神経接続フェーズへ移行する。
 心拍データをモニターしろ」

 科学者の声だった。
 友人に向ける声ではなかった。

 胸の中心が熱くなる。

 レンは手術台の上で叫んでいた。

「やめろ……カイ……たすけてくれ……!」

「助けているんだよ、レン」

 カイの声は静かで優しい。
 なのに、その優しさは完全に“空洞”だった。

「君は壊れた。
 あのまま生きても苦しいだけだった。
 でも……これなら、もう大丈夫だ」

 カイはレンの頬を撫でるように触れた。

「君を永遠にする。
 ぼくと同じ世界に――ずっといられるように」

 その瞬間、機械がレンの胸を突き刺した。

 痛みは現実そのものだった。
 胸の内部が切開され、機械が骨の隙間を押し広げ、
 人工心臓が埋め込まれる感覚が、ありありと蘇る。

 喉から悲鳴が漏れた。

「カイ……やめて……!」

「大丈夫。
 すぐ終わるから」

 少年時代の優しい声と同じ響き。
 それが、より残酷だった。

 

 風景が切り替わる。

 白い実験室。
 中央には透明な水槽。

 そして――水槽の中に浮かぶ男。

 カイ。

 目を閉じ、液体の中で揺れている。
 保存液に浸され、生きているのか死んでいるのか分からない状態。

 レンは視点が変わっていることに気づく。

 これは、過去の“自分の目”で見ている光景だ。

 ――復讐後の自分。

 金属の足音を響かせ、水槽の前に立つ自分。
 無表情。
 空虚。

 その姿を見たレンは背筋が凍りついた。

 こんな自分を、
 自分は知らなかった。

「……俺は……カイを……」

 殺したのか?
 それとも処理したのか?
 詳細な記憶は欠けている。

 しかし、水槽の中のカイは“完全な無”だった。

 もう笑わない。
 もう裏切らない。
 もう何も語らない。

 その静けさが、逆に恐ろしく感じられた。

 

 ホログラムの女の声が背後から聞こえた。

「これが、あなたが封印した記憶です」

「……なんで……俺は……忘れていた……?」

「あなたが忘れたのではありません。
 あなた自身が消したのです。

「俺が……?」

「はい。
 復讐を果たしたあと、あなたは――
 “自分が人を殺した事実に耐えられなかった”。
 だから記憶を分離し、何度も自分に“偽りの逃走劇”を見せていました」

 レンの足元が揺れる。

 確かに、逃走のシミュレーションでは、毎回カイは裏切った。
 毎回レンは死にかけた。
 毎回真実に届かず終わった。

 逃げることを繰り返す物語。

「……俺は……逃げてたのか……」

「はい。
 しかし――もう逃げられません。
 記憶は戻りました。
 あなたが何者なのかを知る時です」

「俺は……なんなんだ……?」

 女は静かに言った。

「あなたは、人造人間。
 だが――あなたの“感情”は本物です。
 復讐さえも、あなた自身の意志でした」

「なら……今の俺の意志は……?」

「あなた次第です」

 

 遠くで、電子音が響いた。

 シミュレーションが解け始め、
 視界の世界がゆっくりと白に戻っていく。

 カイの姿が霞む。
 水槽が溶ける。
 少年時代の河川敷が霧へ消える。

 最後に残ったのは――
 カイが幼い頃に向けた、あの弱々しい笑顔だった。

『レン。
 おれ、レンがいないと……生きていけないよ……』

 その声がやけに遠く、悲しく響いた。

 

 やがて、世界は完全な白に包まれた。

 そしてレンは、自分の胸に手を当てた。

 生と死の境目にある鼓動を感じながら。

 

「カイ……
 俺は……お前を……」

 かろうじて紡いだ言葉は、
 白い空間に静かに溶けていった。

📘 **第十章 記憶の端で ― The Fading Loop**

 

 白い光が静かに収束し、
 レンは再び白い部屋に横たわっていた。

 先ほどまでのシミュレーションの余韻――
 カイの笑顔、裏切り、復讐。
 それらが胸の奥でひどく鮮明に疼いていた。

 しかし、レンはある違和感に気づいた。

 身体が軽い。

 あの重く、金属のようだった感覚が薄くなっている。
 手を持ち上げると、皮膚の表面で青白く光るラインが以前より弱まっていた。
 胸部の機械音も、遠くで鳴っているようだった。

 まるで、自分の身体が“輪郭を失い始めている”ように感じた。

「……俺の身体……どうなってる……?」

 その問いに、答えるようにホログラムの女がまた姿を現した。

「あなたの神経ネットワークは、再構築の最終段階にあります」

「再構築……?」

「はい。
 あなたは“本来の自己”に戻りつつあります」

「俺の……本来の自己……?」

 レンは眉を寄せた。

「俺の本来って……何なんだよ……。
 人間なのか……機械なのか……?
 どっちかに決めてほしいよ……」

「それは決められません。
 あなたは、そのどちらでもあり、そのどちらでもない」

「曖昧すぎるだろ……!」

 思わず声を荒げると、胸の奥で微かな電流が弾けた。

 痛みはなかった。
 ただ、心の深い部分を震わせるような感覚だった。

 ホログラムの女は静かに続けた。

「では――質問を変えましょう。
 レン、あなたは“何になりたい”ですか?」

 

 その問いは、レンの胸に重く落ちた。

「何になりたい、だって……?」

「はい。
 あなたは記憶を取り戻し、真実に触れました。
 復讐も果たした。
 そのうえで、次に何を望むのかを選択する必要があります」

「……選択……?」

「あなたの意志が、次のシミュレーションの根幹を形作ります」

「シミュレーション……またかよ。
 もうたくさんだ……!」

 レンはベッドの縁を握りしめた。
 手が震えていた。

「なんで俺は……何度も何度も……同じ逃走劇を繰り返さなくちゃいけなかったんだ……?」

「あなた自身が望んだからです」

 ホログラムは淡々と答える。

「あなたは“自分が人を殺した事実”から逃げました。
 その痛みに耐えられず、記憶を細かく分断し、
 消しては再生し、また消し……
 結果として“逃げるシナリオ”だけが残りました」

「……俺が……作ったってことか……?」

「はい。
 あなたが、自分で自分を守るために作った世界です」

 レンは息を吸い込んだ。

 胸が苦しくなる。
 機械と肉の中間のような心臓が、不規則に震える。

「じゃあ……あの逃走劇は……俺の弱さか……?」

「いいえ」

 ホログラムの女は初めて“柔らかい声”を出した。

「弱さではありません。
 あなたは生きようとしたのです」

 その言葉に、レンは少しだけ目を細めた。

 

 長い沈黙のあと、レンはゆっくりと口を開いた。

「なぁ……
 俺は……あのとき、カイを……殺したんだよな」

「はい。
 あなたは復讐を果たしました」

「……今でも覚えてないんだ。
 憎しみの感情だけは残ってるのに……
 どうやってあいつを殺したのか……
 どんな顔をしていたのか……
 思い出せないんだ……」

「あなたは、思い出したくなかったのです」

 レンは目を閉じた。

 自分の記憶の奥底に、まだ“空白”がある。
 埋められない穴。
 自分が自分でなくなってしまった瞬間の記憶。

「……俺は……どうすればいい……?」

 ホログラムは一歩近づいたように見えた。

「選択してください」

「選択……?」

「これから迎える三つの道から、あなたの未来を選ぶのです」

 

 白い空間の中に、ゆっくりと三つの光が現れた。

1つ目の光は、鮮やかな青色。
「人として生きる道」
人工部品を限界まで取り除き、
レンを“ほぼ人間”に戻す再生プログラム。

2つ目の光は、深い赤色。
「兵器として生きる道」
感情の抑制と強化学習を施し、
完全な“戦闘AI”として生きる道。

3つ目の光は、淡い白色。
「存在を消し、輪の外へ出る道」
シミュレーションを終了し、
レンという存在をデータから削除する選択。

 

ホログラムの女が言う。

「あなたは、何度もこの選択の前に立ちました。
 しかし、そのたびに決められず、
 逃走の記憶へと戻っていきました」

「俺は……決められなかったのか……」

「はい。
 あなたは誰よりも優しい。
 だからこそ、自分の存在そのものに迷い続けてきたのです」

 

 レンは静かに立ち上がった。

 身体は以前のような力強さを取り戻しつつあった。
 人工筋肉の音が微かに震え、そのたびに部屋の空気が揺れる。

「……一つ聞かせてくれ」

「どうぞ」

「カイは……俺のことをどう思ってたんだ?」

 ホログラムの女は静かに答えた。

「カイは、あなたを“救いたかった”。
 しかしその方法が、正しくなかった」

「救いたかった……?」

「はい。
 彼は幼い頃、あなたに救われた。
 そしてずっと、あなたの影を追い続けた。
 あなたのためなら、自分を捨ててもよいと考えるほどに」

 レンの胸が少し痛んだ。

「だけど、俺は……裏切られた」

「救いと狂気は似ています。
 彼は愛の形を間違えました」

「……それでも……あいつのこと……完全には憎めないんだ」

「それが“あなたの人間性”です」

 

 レンは三つの光を見渡した。

 青。
 赤。
 白。

 そして、自分の胸に手を当てた。

 人間のようでもあり、機械のようでもある鼓動。
 それでも確かに“生きたい”と響いていた。

「……俺は……」

 言葉が震える。

 息を整え、ゆっくりと続けた。

「俺は……俺のままでいたい」

 すると、三つの光がゆっくりと溶け合い、
 一つの柔らかな光になった。

 ホログラムの女が微笑んだ。

「それが、あなたの“本当の選択”です」

「本当の……?」

「はい。
 あなたは――“境界として生きること”を選びました」

「境界……?」

「人でもなく、機械でもなく。
 愛された記憶も、憎んだ記憶も捨てず。
 過去も未来も、どちらも拒まない。
 あなた独自の存在として生きる道です」

 

 白い世界がゆっくりと消えていく。

 光が薄れ、世界が再構築されるような感覚。
 遠くから、現実の音がにじみ寄る。

 風の音。
 機械の起動音。
 誰かの足音。

 レンは目を開いた。

 そこは、見知らぬ都市の高層ビルの屋上だった。

 夜風が吹き抜け、眼下には広い街の光が広がっている。

 胸の奥では、新しい鼓動が確かに響いていた。

「……終わったわけじゃない。
 でも……始まったんだな、きっと」

 レンは夜空を見上げた。

 星がひとつだけ光っていた。

『……また、記憶が薄れていく……』

 あの言葉の続きを、
 彼は今、初めて違う意味で理解していた。

 薄れていくのではなく――
 新しい記憶が上書きされるのだと。

 自分の意志で。

 自分の歩みで。

 

 そして、彼は歩き出した。

 もう逃げない。
 もう守られない。
 もう誰かの影でも、犠牲でもない。

 人間でも機械でもない、
 “東海林レン”として。

 

──第十章 完結

物語はここで幕を閉じます。

あとがき

 本書を手に取っていただき、ありがとうございます。

 「記憶」というものは曖昧で、ときに残酷で、
 そして人を救いもすれば、縛りつけもします。
 そんな思いが胸の中で静かに膨らんでいったとき、
 主人公・レンの姿がふっと浮かび上がりました。

 彼は、人間としての生を失いながら、
 なお人間であろうとし続けた“境界の存在”です。
 一方でカイは、優しさの形を見誤った悲劇の人物でした。

 二人の関係は友情であり、愛であり、呪いであり、救済でもあります。

 もし読者の皆さんが、
 レンの痛みや迷い、そして最後の一歩に
 少しでも心を寄せてくださったなら、
 作者としてそれほど嬉しいことはありません。

 物語はここでひと区切りを迎えますが、
 レンの生はこれからもどこかで静かに続いていきます。
 あなたの心の片隅で、時折“シミュレーション音”が響くことを願って。

 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


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